おひさまの日記
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2003年04月29日(火) 「あらゆる形で人から与えられるものに翻弄されるのはやめなさい」

人の魅力ってなんだろ、そんなことを考えたりもするけど、
本当は、みんなそれをわかってる、わかってるんだ。

そして、自分の魅力もわかってる、本当はね。
けれど、みんなそれを認めないの。

認めずに、他の人から「あなたは魅力的だ(あなたが好きだ)」と言われたい。
他からの言葉や態度などの表現を与えられ、自分には魅力があるのだと感じたい。
「与えれれる」ことが喜びなのだ。

けれど、与えられる喜びは、一過性のものだ。
「あなたは魅力的だ(あなたが好きだ)」と言われ、喜びにひたっていても、
次の瞬間、「あなたは魅力がない(あなたを好きじゃない)」と表現された時、
喜びは粉々に砕け散り、みじめさや悲しみが襲ってくる。

「与えられるもの」というのは、なんと不確実で、不誠実なものだろう。
すべてにおいて、「与えられるもの」とういのは、
与えられなくなった瞬間からもう存在せず、私達を満たすことはないのだ。
そして、次に、いつやって来てくれるかもわからないのだ。
そんな、不確実で不誠実なものを、首を長くして待っていたら、
私達は頭がおかしくなってしまう。

そして、与えてくれないことに苛立を感じ始めたら、
それこそ、怒りや憎しみの嵐、さらに心はすさんでくる。

そんな、受動的なものだけに頼って生きていたら、
私達の人生って、本当に不幸なものになるなぁ、今日、しみじみそう思った。

私達は、いつも「与えられること」を期待し、待っている。
「与えられない」と失望する。
時には、それを侮辱や裏切りだと感じる。
しかも、それは、自分勝手な反応だったりもするんだよね。
エスカレートすると、さらに復讐までしたくなっちゃう。

だんだん、馬鹿らしくなった。
何かにつけ、「人から受け取る=与えられる」もの、
それが、賛辞だろうが、罵倒だろうが、注目だろうが、無視だろうが、
そんなもんで一喜一憂してることが。

そして、それは、昨日の出来事で傷ついて、
さんざんその感情にどっぷり浸かり、味わい尽くしたから、そう思えたのだろう。

今日、自然の中でボケーッとしながら、そんなことを考えていた。

人間だから、反応しちゃう。
そう、反応すればいい。
感情も動く、傷つく。
でも、その反応はきっと最初のショックの時だけでいいんだ。
私達は、真実の元、すぐにそこから抜ければいいんだ。

「誰かがあなたを好きじゃなくても、魅力を感じなくても、
 あなたをキレイだと言わなくても、構ってくれなくても、
 私は知ってるよ、あなたの魅力を。
 あなたにしかない魅力を。
 誰とも比べられない、比べる必要なんかない魅力を。
 それは、あなたも十分にわかっているはずのものだ。
 なぜ、それを、あえて人から受け取ろうとする?
 それはすでにそこにある。
 あなたを傷つけた人は(厳密にはあなたが勝手に傷ついたのだ)、
 あなたの魅力を知らない。
 それを知ることのない人は、あなたとの本当のいい関係も築けない。
 あなたも、その人といい関係は築けない。
 あなたがそれでもその人を追いたいなら、それは幻想だ。
 それだけのことだ。
 あなたは、いつも、自分らしく、そのまま胸を張っていなさい。
 真の意味であなたといい関係を築ける人は、
 真の意味であなたを傷つけることはないんだよ。
 あらゆる形で人から与えられるものに翻弄されるのはやめなさい。
 あなたの中にある不動の輝きを知りなさい。
 それを自分で認めない限り、あなたは満たされることなどあり得ない」

今、多分、お空の上の方のエライ?人かなんかがこう言っている。
私は文章をタイプしていると、突然、頭が真っ白になって、
言葉が、どわぁ〜っ!と湧いてくることがある。
もはや、自分の言葉じゃないのね。
そういう時は、大体、
「おおお!いいこと書いてるぢゃん!(自画自賛すんなっつーの)」
って思える時だ。
上の言葉もそうだった。

で、自分の中での問題がクリアになっていくことが多いのね。
書きなぐってるうちに答えが出てる、みたいな。
求めてた答えが、いつの間にか言葉になってる、みたいな。
だから、眠くても、この日記を欠かせない自分がいる。
メンタル的にしんどい時は、特に、だ。

ありがたや〜、合掌。
チャネってるんでしょうか?(笑)

自然に、次に「自ら与える」というテーマが見えてきたよ。
自分に与える、そして、人に与える、ということが。

ああ、なんかスッキリした!
さー、寝よっと。


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