| 2008年09月22日(月) |
ダライラマの般若心経@アジア映画祭 |
9/18に見た1本。 「ダライラマの般若心経」 ダライラマ師に、撮影者が質問して師がこたえていくというドキュメンタリー。 そして、彼の亡命地であるインドのダラムサラの荒涼とした風景と信仰の姿が映る。 *意味が分からなくて心経を唱えるのはどうか。 しないよりいい。さらに仏教や仏陀へのリスペクトの形としてだったら、唱えないよりもちろん唱えるべきだ。 *ギャーテーギャテーハラーギャテー・・・の解釈 心経を唱えられる人ならわかると思うが、最後のこの部分は、音写といって、漢訳がしてない。 マントラそのものを音として漢字に直しただけで、この部分はだから、ネパールに行ったとき 寺院を訪ねるとお坊さんたちといっしょに唱えられた。 なぜここのみ音写かというと、このマントラの意味が深くて、漢字訳できないから。漢字というのは、いわゆる表意文字で、書くことによって、その字そのものに意味がとらわれる。表現する漢字がなかった、ということ、っていうか、それくらい、意味が深くて広いってことか。 師は「ギャテイは、go。そして、もっと上にGo、そして彼岸へ」ということ出、それは、唱える人の信仰のレベルよってとらえ方がちがう。5つのレベルへこの言葉によって到達するのだが、わたしが、この部分がわかったということで、逆にわかっていないということがわかってしまう・・・といったことを例の子どものような笑顔でいわれるダライラマ師であった。 *空とは これは空っぽということではない。 依存とということ。 (わたしが・あなたが)認めることによって在る 絶対存在ではない。 この説明はすごくむずかしかったけど、「哲学の実存主義的な考え方だなあ・・」と思った。 わたしとしては、依存よりむしろ「相互認識」といったことばのほうがベターなんじゃないかと思ったりしたけど。 ダライラマ師のあの魅力的な笑顔を久しぶりに拝見できてよかったが、それにしても、むずかしかった。 というより、わかっても、それはそれで何・と思ったりして。やはり、実践が重要だろうと思うのだが。 より高みに行く(心)こと、より自由であること。 より自由により高く と思いつつわたしは毎朝、心経を読む。 そして祈る。 世界の平和やこの国の平安を。 さらには、身近な人たち・友人知人や家族の平穏、そして、わたしの今日1日の安を。 それでいいんじゃないかと思っているのだが。 偽善ではなくて、こうすることで、わたしの心も安らぐからいいんだわ。 これは、まさにへんろ道で体が覚えたことだ。 だって、これ、お接待の心だもん。 へんろ道で学んだことはじわじわ、今、効いていると思うこの頃である。 それから 以前なんかで読んだこと。 チベット僧のまず第一の修行、かつむずかしい修行は、「憎しみ」を心に起こさないこと、憎しみを消滅する行だと。 ダライラマ師を拝見していると、それってホントだろうと思える。 これがまさに「空・・くう・・の自由」へ通じる道だろうかと思ったりする。
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