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2002年01月19日(土) |
木に咲く花 ●武蔵丸(車谷長吉)・杜子春(唐宋伝奇集) |
いつもの散歩コースより、少し先まで足を伸ばしてみると、日当たりがよいせいか、木々のほころびが目に飛び込んでくる。
林の中に、陽のあたる方だけ咲いている白梅を見つける。木蓮、こぶし、はなみずきのつぼみを、カメラのレンズのように、目を寄せて眺める。どれも大好きな、木に咲く花。
昨年4月、わたしは今の部屋に越してきた。仕事は忙しいし、物件は時節柄出払った後で、条件がよい部屋はほとんどなく、それでも、「ここなら」と決めた理由のひとつに、かねてから好きな公園の側だということがあった。 川に沿ったこの公園には、お気に入りの白木蓮の木がある。そう猛々しく大きくはないのだが、林から離れてぽつんと生えている。 木蓮を楽しむにはあの白い花を青空バックに見るのがいちばん、と、常々わたしは思っているのだが、孤立しているからこそ、この白木蓮は、どこから見ても、青空を威して和していた。 今年は、見ようと思えば毎日でも、そのほころんでいく様を見届けることができる。
読んでみると、芥川が書き換えたものとはまったく様相を異にする、唐宋伝奇の「杜子春」。なぜ、芥川はあの「杜子春」を書こうとしたのか、しばし考える。 「カラマゾフの兄弟」の中の小さなエピソードを「蜘蛛の糸」として書き換え知らしめたことは大きいが、「杜子春」はどうか。云ってしまえば、芥川のは話が単純で、唐宋伝奇の方がずっと面白いのだ。 面白くてもそうでなくても、自分好みでもそうでなくても、このところ、本を読むと、作家がそれを書き始めた端緒のようなことをよく考える。こうして、同じ人の形に同じ内臓を持って生まれてきて、まあ、生まれた限りいつか死んでいくらしいと云う、大筋では変わらない生活をする中で、彼らの中にどんな塊が生まれて、作品に形を変えていったのか。そういうことを考えていると、時間はあっという間に過ぎていく。いいのかしらん? こんな毎日で。
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