Journal
INDEXbacknext


2002年02月15日(金) 河合隼雄さんという人 ●ウソツキクラブ短信

 人に本を貸すことあげることはままあっても、人に借りることは少ない。それが珍しく友達に借りた。いや、一緒に映画を観に行ったら、「これ面白いよ」と前後なく貸してくれたのだ。
 河合隼雄、大牟田雄三共著のウソツキクラブという講談社文庫。

 読み始めたらこれが実際面白いので、のんびりした時間がくるたびに、少しずつ読んでいた。
 
 これ、読み始めてすぐに分かるのだけれど、共著の大牟田雄三さんは「大無駄言うぞう」で、これ自体が河合さんのおちゃめなウソのである。(おちゃめって死語?)

 内容は、もう、恐れ入りましたって感じのオオウソの連続。しかも、あることないこと言ってるのではなく、在ること在ることウソにしている。つまり、現実に在るもの、在る人、本当ならこうという姿、を、しらっとした顔してウソに変換しているのだ。

 だから元の、本来の、在る事実を知らなければ、面白さも半減だ。するとこれはウソの本とは言え、インテリ向き? いやいや、だれでも楽しめる。わたしのようなpetit×petitインテリでも十分笑えたから。

 それにしても。真っ向からオオウソをついておいでになるので、わたしなどはついついウソにひっぱられてしまう。

 〈次郎物語〉という章がある。大牟田雄三氏は、「浦島太郎だとか、桃太郎だとか、金太郎だとか、日本人はどうして太郎さんのことばっかり語るのだ!?」と憤慨してみせる。そして、「まあ、次男に生まれた痛みから、たくさんの次郎さんのことを研究して「次郎物語」という著作で紹介してくれた下村湖人という人もいるが・・・」と、こんな具合に次郎さん応援歌が始まる。そこに、息子の大牟田岩二くんが加勢する。「父上、灰谷健次郎先生がいらっしゃいます、中村雄二郎先生がいらっしゃいます、大江健次郎先生だっていらっしゃいます」
 ここで、わたしは、え? と思う。大江さんって、次郎さんだっけ、太郎さんだっけ?
 まったく、大江さんが次郎さんでも太郎さんでもなく、三郎さんであることを、一瞬でも忘れさせた河合センセイはエライ。

 かなわないなあ、バッカだなあ、と思いつつちびちびと読み進めるオオウソはなかなか楽しいものであった。


 河合センセイに、一度お会いしたことがある。
 「ロミオとジュリエット」を上演した時、観劇されて、その後のパーティーに同席してくださったのだ。
 センセイはその場で、このようなことをおっしゃった。

 長い間、わたしは人の話を聞き、人の心に立ち入る仕事をしている。それは無力感を感じることの連続である。特に、思春期の少年少女のことは本当に分からない。(上演当時、確かサカキバラ事件の前後で、13歳14歳の犯罪が取り沙汰される時期だった。)ロミオもジュリエットはちょうどそれくらいの歳だ。彼らの愛し方、彼らの進み方、彼らの選び方を見て、涙が出てきた。わたしには彼らのことが分からない、そう思った。これまでどれだけの13歳や14歳と、分からないままにつきあってきたのだろうと、苦しくなった。

 そのように語りながら、センセイの目が、また赤くなってきた。

 人の心の仕事に、真剣に立ち向かってきた人の痛みが、そこにはあって、わたしは、ただただセンセイの顔を見ていた。

 なんだかその時のことをありありと思いだして、この先がどうも書き継げない。

 時間ばかりが過ぎて、独り物思いにふけってしまうので、今日はここまで。(駄目だなあ。思うことが言葉にならない。)

 ところで、わたしが河合先生のことを河合センセイと書いたのは、完璧に川上弘美氏の「センセイの鞄」に影響されている。
 あの小説にでてきたセンセイとツキコさんのように、日本酒を、こう、くいっと傾けあえたら、麗しい時間になるだろうなあ。
 河合センセイは、そんな風に思わせる、実に素敵な男性なのである。


MailHomePageBook ReviewEtceteraAnother Ultramarine