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2002年02月20日(水) |
かつて書いたものの方が面白いなんて。 |
●今日は日本中のお茶の間で、田中鈴木両氏の質疑応答の話が盛り上がったんだろうね。で、だいたいは、同じような反応をしてるんだろうね。わたしは触れることをやめておこう。
●髪が伸びた。20代からストレートロングで通し、30代後半であっさり切ってしまった髪が、また伸びてきた。 と、髪への思い入れを書こうとしていたら、かつて自分が書いた文章を思いだし、引っ張り出してきたら、今書こうとしていることよりよっぽど面白かった。まずいな。 ということで、全文、ペーストしてみる。1年半ほど前に、メールマガジン用に書いたものだ。(ちょっと長いです。)
最近のこと。2年ぶりに実家に帰ると、76歳になる祖母が驚いたように 「いつ髪切ったん?」と聞いた。 わたしは24歳から35歳までずっと、腰までのストレートロングで通した。 今でも久しぶりの友人に会うと、トレードマークの長い髪が刈られてしまったことに皆一様に「勿体ない」と言う。ただ、祖母は髪を切ったわたしを2度ばかり見ているのだ。 「こういう短いのんもええなあ」と言いながら皺を貯め込んだ指を広げてわたしの髪に手櫛を何度も何度も通し、目を細める。きっと祖母の目には長い髪をしたわたしの姿が映っていたのだろう。祖母はわたしの長い髪が大好きだった。
そんなに長くロングで過ごした女が突然切ると、たいていの人が「何事か」と思うらしい。実際は何事でもなかった。女友達とお茶を飲んでいて、 「時々、突然、髪切っちゃおうかなって、思うことあるんだよね」 「じゃあ、今日切る?」 「今?」 「うん、すごく分かってくれる美容師知ってるから」 というなんのことはない会話をした3時間後に、ショートヘアーのわたしになっていた。 わたしから切り離された60センチくらいの髪は、友人の漆芸家の手にわたって、うるし筆になった。 髪を切って後悔することはなかったが、少しだけ残念に思っていることがある。できれば美容院ではなく、家に新聞紙を敷いて、どこでも売っている紙ばさみで、誰かにざっくざっくと切ってほしかった。
わたしは「散髪」が好きだ。
切る人と、切られる人。 新聞紙を敷いて、その真ん中に椅子を据える。大きなバスタオルを肩にかけて洗濯ばさみで留めたり、ゴミ袋の底に穴を開けてすっぽりかぶってガムテープで留めたり。いずれにしろ少しみっともない。少し恥ずかしい格好で慎み深く第一刀を待つ。排泄する時の動物みたいに、じっと一点に視線を留めて。恐々と頭部を委ねる。自分でもじっくり見たことのない後頭部やら頭頂部やらをまじまじと眺められ、霧吹きでシュコシュコと水をかけられ、冷たいとも言えずちょっと顔をしかめている内に、突然はさみが入る。 「じょりっ」 さっきまで自分の体の一部だったものがぱさりと落ちる。その行方を見ようと顎をひくと、いち早く人差し指でくいっとあげられてたりして。次第にリズミカルになっていくはさみの動きに一抹の不安を覚え、相手の顔を上目遣いに見たりする。忙しそうで視線は交わらず、新聞に目を落としたりする。足で落ちていく毛束を集めてみたりする。見出し小見出しまでは読みとれても本文までは読めなくて、小見出しを声に出して呼んでみたりする。なんの反応もかえってこなくてまた視線を中空に戻してみる。まじまじと見慣れた部屋を眺め、あそこを明日整理してやろうなどと考えたりして。試しに今日の自分のトピックを口にしてみたり。かえってくるのは「ほんと?」「そう・・・」「よかったね」とか、そんな感想ばかり。仕方なく聞こえてくる音に耳を澄ます。雨音だったり、BGMだったり、しゃきしゃきしゃきしゃきはさみの音だったり。そしてある時は、呼気と吸気の音だけの時間。時には「あっ」という小さな声の漏れるのを聞き取って、反射的に「大丈夫?」と尋ねる。「大丈夫大丈夫」と真意を汲みかねる答えが返ってきたりして。 切る人はそれは真剣だ。円形舞台のようにしつらえた作業場をくるり、くるりと回ってみて、あるべき姿を夢想する。しゃきしゃきしゃきしゃきはさみを二本の指で音立てながら、髪に手櫛を入れつつ、上から横から、眺めてみる。上瞼にちょっと力が入り。全神経を集中して第一刀をいれる。一度落ちていく毛束を見ると、何やら気が大きくなって、作品を仕上げる自信と責任感に溢れる自分を楽しんで。また一刀、また一刀。作業にちょっとしたリズムが生まれてくると、それを守ることを楽しんで。時折選択肢が現れる。こう切るか。ああ切るか。一瞬悩んで動きを止めて、結局本能的に手を動かすことを楽しんで。大胆に。繊細に。揃うべきところはきっちり揃え、あるところでは不揃いの美しさもちゃんと考慮にいれて。ある瞬間、ここからが「仕上げ」だというポイントがやってくる。終わりよければすべてよし。自分が見たいものを仕上げる喜び。はさみは段々ゆっくりになっていく。眺めては僅かに切り。切ろうとしては思いとどまったり。円形舞台を再び回りながら、作品を検証する。どこかに輝かしい可能性が埋もれていないかと探ってみる。そして突然、「出来上がり」がやってくる。「出来上がり!」と宣言してから、また少し距離をおいて見たりして。
鏡に見慣れない自分を映してみる。口をちょっとすぼめて、右から、左から。 上目遣いに。顎をあげて。手鏡を合わせて全き横顔。そして後ろ姿。 一方。気に入って貰えるだろうかと息を詰め、相手の肩越しに自分の顔を映し込む。角度を変えるたびに笑ってみせる。どれもいい。どこからもOK。と、伝えたくて頷いてみせる。 「いいね」「そうでしょ?」 「上手だね」「そうだろ?」 時々はお互いにちょっと気を遣ったりしている。時々は新しい自分と新しい相手にほんとうに浮き浮きしている。 いずれにしろ、ひとつの鏡に二人の姿が映っている。鏡の中に二人でいる絵を、お互いが眺めている。
散髪のことを想像するのは楽しい。しあわせと名のつくいろんなものがそこにあるように思えて。 いつだったか、誰かに散髪して貰うためだけに、もう一度髪を伸ばそうと思ったことがあった。そしてすぐに思い直した。髪が短くったって散髪はできるじゃない! でも。と、わたしは思う。 ある幸せな風景が、わたしの今はなき長い髪に映し込まれているのかもしれない。ちょうど祖母の瞳の中に、長い髪のわたしが映りこんでいたように。
※HP/Etcceteraに「A grin without a cat」をアップ。
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