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2002年08月04日(日) |
まだ土を押し上げきっていない、夜明けの霜柱であるような。 |
毎日書いている頃は、タイトルのところにその日読んだ書名だの映画や芝居のタイトルだの付しており、これは先々自分の過去を読む目安になるだろうと思っていた。
こうしてなかなか書かない日々が続くと、読んだ本すらすぐ忘却の彼方に。
で、書棚に入りきらず溢れ出た書籍を整理しながら、このところ自分の読んだ物語のことを思いだしていた。
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仕事先の新潟のホテルにて。朝食を待ちながら、食べながら、コーヒーを飲みながら、川上弘美の短篇をひとつ読んだ。
93歳の老人と、民間ヘルパーとして彼の家に通う53歳の女が、一緒に時間を過ごすうち、ずっと一緒にいたいと思うようになり、ずっと一緒にいるようになる話。
その物語の中に漂う空気が、わたしがその頃よく包まれてしまう空気に、なんだか似ていた。
幸福でいて不安な。希望が深い絶望に支えられているような。隣にいる人を、呼び続けていないと心許ないないような。満たされているのに、心細くてたまらないような。
川上さんは53歳の女性に、こう語らせる。
「私はときどき、自分がまだ土を押し上げきっていない、夜明け前の霜柱であるような気分になる。」
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体が火照ったまま先に寝息を立て始める恋人の横顔を眺めながら、運良く共に暮らし続けて、共に歳をとった時のことを想像したりする。 わたしは想う。 セックスできなくなる時が来るのは、きっと切ないことだろうな。その時は、どんな風に愛しあうんだろう。うん、でも、それはきっと大丈夫。汗のまとわりついた肌どうしでも、洗ってサラサラした肌どうしでも、いつも触れ合っているだけで気持ちいい。それにキスはずっとずっと出来る。人生に起こりうることとして、唇と舌を喪ってしまうというのは非常に確率が低い。でも、そういう想像をすること自体が、ひどく切ない。
どちらかが先に死んでしまうというのも、実にわかりきったことでありながら、怖い。怖いことには出会いたくない。それでも出会うことが確約されているものだから、今から考えても仕方ないのに、どきどきする。
たくさんおしゃべりをしたあと、ふっと訪れる沈黙の中に、彼の本体を探す。
本人でも管理しきれない、生きてきた分だけの膨大な個人的記憶と、現在の自分にまとわりついているあらゆる現実的なこと。 本人でも気づかないくらい、人はいつもあらゆる記憶と思いを同時に抱え抱えして暮らしているので、わたしが例え沈黙の中に彼を探そうとしても、見つけられるはずもない。そして、つい、「なに考えてるの?」とか、馬鹿なことを訊いてみたりする。そういうときの応えはほぼ決まっていて、彼は「なんにも」と言う。
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二人でいるようになる前には、そういう空気に包まれることが少なかった。ないとは言わないが、少なかった。仕事のことや、自分の将来の仕事のこととかを考えるのに忙しくって。(そして、その種のあらゆる感傷は、自分の心と体から、実は意外と遠かったのかもしれない。)
もちろん今だって、現実的な目先のことをいつもいつも考え暮らしているのは変わらないのだけれど、その折々に、突然そんな空気に包まれ、自分がすごく心許ない朧気なものであるような気がする時が紛れ込む。
私もときどき、自分がまだ土を押し上げきっていない、夜明け前の霜柱であるような気分になる。
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いつも一緒に体を隣り合わせて眠りたいと願うのは、もしかしたら、そうすることで、彼との隙間を埋めようとしているのではないかと思ったりする。 眠りという、自分の意識の外の時間を共にする時間を増やしたいのではないかと思う。体をくっつけていれば、触れ合ったところが通り道になって、意識の外の何かが、わたしと彼の間を行ったり来たりして。
共に眠ると心地よいとか、安心感があるとか、そんな大きな喜びのうねりの中に、そんな想像が忍び込んで、わたしは一人、微笑んでしまったりする。
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思い出すとそのようなこと。そのようなことを、あの朝思った。
本を読むたび、なにがしか感じて、そして忘れていく。日常なんてそんなもの。
高すぎる税金に憤ったり、あんなに貧乏に喘いだ樋口一葉がお札になることを冥界で彼女自身どう思うのか気に病んだり、いまだに戸籍上では他の女性の夫である恋人のことを思ったり、かつての恋人からの手紙に返事を書かなきゃと思ったり、仕事はそりゃあ毎日大変だったり、日々起こる悲惨な事件のあまりの理不尽さに涙したり、来年の仕事を探さねばと焦ったり、まあ、きりがないほどあれこれ考えて暮らしていかねばならないわけで。
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そして、そんなこんなで暮らしていると、毎日毎日、わたしはちょっとずつ、いい人だったり嫌な人だったりする。自分の在り方の微差につきあいきれなくて、落ち込んだりする。
こういう時、恋人と一緒にいるといっぺんに癒されてしまうのだが、今夜はいない。で、こうして書きながら、眠りを待っている。
明日も朝は早い。
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