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2002年11月28日(木) なんにもない毎日でも、いろいろと思うことはあったりする。

●昨夜は20年来の芝居仲間と久しぶりに食事。今夜は恋人と食事。フランス料理に続き韓国料理。金もないのに、外食続き。なぜ、と問われれば、そこに人がいて、食べることを共にするときの空気と、具体的に言ってしまえば、そこで交わされる会話が好きだからと答えよう。金銭のことのみならず、後先考えないで行動する資質は、きっと一生変わらない。そこにわたしの時間を美味しくしてくれそうな匂いがある限り。

●ひたすらに本を読んでいる。かつてのように日記のタイトルに記していけば、よい記録になりそうものだが、記録を越える勢いで読み飛ばしている。 

 アンリ・トロワイヤのチェーホフ伝、これは実に面白かった。サハリンに行ってみる、編集者とつきあう、女に惚れられる、自己弁護をする、自己に懐疑心を持つ、そういったあらゆる人間的なことは、小説だけ読んでいただけでは味わえない。もちろん他者の手になるフィクションに過ぎないのだが、それを承知していても楽しめる。

 久しぶりに読み返すグリム童話。幼かった頃、あまりに理不尽な話が多いので、つまりは心の曲がったものがハッピーエンドの物語の主人公になるとか、心の美しいものが幸福になれないとか、そういうことが解せなくて、えんえん泣いて母を心配させたことがある。
 今読み返しても、基本は変わらない。なぜこんな物語が生まれたかと探る心の底には、人間の善悪に関して人生は公平であってほしいという、単純な理屈がある。 
 現実がままならないのなら、せめて物語は、などと思うのは、嘘。
 実際わたしは、グリム兄弟の集めた物語たちの解せなさが好きだ。当たり前な勧善懲悪の童話集など大人になって誰が読むだろう。
 じゃあどんな物語を求めてるんだ?
 あらゆる物語。
 と、わたしは答えるしかない。

 英語で読む、愛するレイモンド・カーヴァー。村上春樹氏独自の翻訳文体でしか知らなかった物語が、違った顔を見せ始める。平易な平易なことばの中に、人と人の、人と社会の、間に存するおかしみ哀しみが埋もれている。翻訳された日本語より英語で読む方が平易だと言ってもおかしくないくらいのことばたちの中に、わたしの求めている物語が埋まっている。こういうのはもちろん、先ず日本語で熟読させてもらえた恩恵の上に成り立っているのだが、それにしても。
 生きていくのがいかに簡単で、いかに難しいかということが、そこに現れている。ことばという、いちばん大切なツールの中に。

●来年の仕事のための英語学習は細々と続いているが、若い頃の学習に比べるとかなり楽しめる。ことばあっての人間、人間あってのことば、ってなことを分かってきたからだろうか。

●恋人がフランスに行ったとき仕入れてきた、日本語を学ぶフランス人にまつわる笑い話。
 「どんより」ということばを使って文章を作りなさい。
 →「うどんよりそば。」
 いいなあ。これはおかしい。相当おかしい。「饂飩より蕎麦。」
「どんより」に呑み込まれてしまった「飩」に悲哀さえ感じる。
 そう言えばテレビ番組で、海外で日本語を学ぶ学生が、日本語を使って寸劇を演じているという場面があって、オーストラリアの学生がプラスティックのかつらをかぶって時代劇を演じていた。
 待ち娘に「よいではないか、よいではないか」とせまるお代官さま。待ち娘は懸命に助けを求め逃げまどう「そーれー!」
 ほんとに、なんでそういう時、「あーれー!」って逃げまどう決まりになっているんだろうね。いやあ、おかしかった。

 わたしも、英語学習ロシア語学習の中で同じような間違いを犯す自信は、たっぷりとある。けっこう楽しいんだ。知らないことば。よその国の人たちが、それによって暮らしている、ことばたち。

 今夜、韓国料理の店にいて、どこぞのCS放送なのか、韓国のTVドラマが日本語の字幕つきで放送されていた。
 家を飛び出してしまった女房を、自分でちゃんと探し出し連れ帰りなさいと、夫である息子に父親が説得している。夫である息子は答える。
「彼女は自分の足で出ていったんだから、ぼくには連れ戻せませんよ」
 これって、きっと直訳なんだろうな。なんだかわたしは、このことば、ぐっときた。
 時間と能力があれば、世界中の言語を学びたい、なんて思ったりもする。
 


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