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| 2003年03月18日(火) |
飽和状態。●白痴群(車谷長吉) |
●日がな一日読書にいそしんで休日を過ごす。読書の合間に、自らの現在だの未来だのを考える時間が、たびたび紛れ込む。読んでなければ紛れ込まない思索があり、読んでなくても紛れ込む思索があり。
●夜遅く、「飯を一緒に」の電話が恋人からかかる。終電に飛び乗って、待ち合わせの街へ。
彼は、9月にフランスに発つまで、あまりにたくさんの仕事を抱えている。そのすべてにおいて責任ある仕事をしているものだから、もう、飽和状態にある。仕事をこなしてもこなしても、まだ目の前に山積み状態。休む暇なく、本当に、ひたすら働いている。時間と成果の両方を競うゲームの主人公のように。
彼と話していて、わたしは全く別の意味あいの「飽和状態」を待っているのだと気づく。
この仕事をはじめてずいぶんと経ち、自分の作品を創るべき時期にきているわけだが、「じゃあ先ず何をやるんだ?」と企画を求められると、わたしはその「ひとつ」が提出できない。
いつぞやも書いたが、わたしの中に複数の視座があり、何をどう語るのが自分らしいのか、何をどう伝えることが今のわたしの必須なのかが、どうもはっきりしない。
たとえば、こんな風だ。 わたしの中に、受け皿としてのコップが、幾つもある。わたしの幾つかの問題意識と言い換えてもよい。 そのコップの中には、ほぼ均等に水がたまっていく。どれか一つが一気に溢れることはない。真面目に生きていると、どれも一杯になるのだが、私固有のバランス感覚で、どれも表面張力レベルで拮抗して止まってしまう。
どれかひとつに、たった1滴が落ちてくれれば、表面張力が崩れ、たらたらと零れ出す瞬間がくるのに、その1滴が落ちてこない。何かひとつに偏れない。
●喜劇でもいい。悲劇でもいい。楽観的でもいい。悲観的でもいい。主観的でもいい。客観的でもいい。具体的でもいい。抽象的でもいい。 切り口が定めることが始まりなのに、わたしは、世界を見る目がゆらゆらゆらゆら揺れていて、どこにも「とりあえず」と腰をおろすことができない。
●どうしたって語り始めなければしょうがない「飽和状態」が訪れ、そこに決定的な1滴がしたたる瞬間、その瞬間を待つための時間を、わたしは過ごしている。
●そんなことを話したり考えたりしながら、ぐいぐいと、盃を傾け続けた。酔っぱらってのち、現実的な飽和状態でくたくたになっている彼をマッサージする使命を帯びて、この夜はホテル泊まり。彼が眠りにつくまで、それが天職ででもあるかのように、マッサージし続けた。
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