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| 2003年03月19日(水) |
人間と、状況。●戦場のピアニスト(R・ポランスキー)●ザ・ピアニスト(W・シュピルマン) |
●ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」を観る。 彼らしいと思える特別な手法は何もない。目に見えるシーンのすべては確かに衝撃的だが、かつてあったことを淡々と再現しているにすぎない。 そんなことに関わりなく、この映画が素晴らしいのは、表現者の目線が、現在が、とってもはっきりしているところにある。
●ポランスキーは、2時大戦下のワルシャワに幼少期を過ごし、ゲットーで暮らし、自らはゲットーを脱出したが、母親を収容所で失っている。 その記憶を、映画人である限りいつか撮るだろうと思い続けて暮らした中、ようやく巡り会ったのが、この原作であったらしい。 「シンドラーのリスト」の監督をオファーされて断った彼が、この原作に魅かれた理由は、「自分と近すぎず、距離感を持てる」ということだった、と、語っている。
そして、その通り、あったことはあったこととして描き、忠実で、しかも、自らの情感に偏りすぎず、その「状況」下での、人間の多様な物語を描くことに成功している。 あるのは、「人間」と「状況」だけ。 そこに、どんなことが起こりうるか。
●見終わってすぐに本屋に行き、原作を買い、一晩かけて読み終えた。 ピアニストのシュピルマンは、記憶の生々しいうちにこれを記し、もちろん発禁の憂き目に会い、戦後50年を過ぎてから、彼の息子が出版をした。 そこに読めるは、感情的に整理できない事実(もちろんそんな事実は一生涯整理できるものではないだろうが)ばかり。事実ばかりが、羅列されている。しかし、彼が秀でた芸術家であったこと、偶然にも敵の目をかいくぐって過ごせたこと、終戦間際に彼を救う「ドイツ人」に巡り会ったこと、その小説より奇なる現実の力ゆえに、人に読まれるべき作品となっている。
物語は、生きている人間に付随するものなのだ。彼と同時期にゲットーで過ごし、子供たちとともに収容所で亡くなったコルチャック先生だって、そこまでは生き長らえ、最期まで人間として選択をした末の死だったからこそ、わたしたちにその生き様が伝わっているのだ。そう考えれば、敬意を表すべきどれだけの「生」が、意味なく(当人の選択なく)失われていったことか。 シュピルマンの戦後の「生」の影には、ドイツ兵でありながら彼を救い、自らは戦犯としてシベリアで亡くなったヴィルム・ホーゼンフェルト大尉の「失われた物語」が隠されている。
●原作には、ホーゼンフェルト大尉の日記抄が併載されている。ドイツ人でありながら、その前線に立ちながら、平和を希求し、人間の尊厳を問う姿勢が、自らの現在に照らして、痛ましく書きつづられている。 彼の物語は、語られることなく、終わっていたのだ。
●シュピルマンを語り、ホーゼンフェルトを語り、戦争を語り、ナチを語るポランスキーの目に、曇りはない。一生晴れないであろう、彼の個人的な記憶の曇りは、そこに垣間見えない。少なくとも、それが映画の本質ではない。
あくまでもそこには、ありえる「人間」の姿があり、かつてあった戦争(ユダヤ人迫害)という「状況」があるだけだ。
いつかは死ぬ人間が、どう生き、どう死ぬかということ。極端な状況下で人間の尊厳がどう変形するかということ。極端ではなくとも、人はそれぞれの状況下で、生きたり死んだりするということ。
●悲しむべき事は多い。でも、悲しんでいるより先に、生きている限り物語は続くのだと知る。続いていく「生」が、喜ばしかろうが辛かろうが、それぞれの物語は綴られる。それこそが、生まれてきた意味であるかのように。
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