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| 2003年04月11日(金) |
懐かしのワープロたち。 |
●ようやく仕事用の「いつものわたし」を用意して、打ち合わせに出かける。来年4月まで3本の打ち合わせ。いつ来るんだいつ来るんだと呼ばれたわりには企画がたいして進んでいない。ただ、3本分のキャスティングの現状を確認していると、「ああ、これからこういう新しい人たちと出会っていくんだな」と思うことあり、「ああ、またこの人とご一緒するんだ」と思うことあり。良きにつき悪しきにつけ、出会う人によって自分の仕事の在り方まで変わってしまうものだから。 また、どきどきわくわくする出会いがあればいいなあ。わたし、なんだかんだ言って、人間、好きだもの。
●かねてから、いつか買ってやるいつか買ってやると思っていた「軽いノートPC」を、ついに衝動買いしてしまう。PB G4の小さいのが出た時にはずいぶん心が揺れたが、15インチのを今使っていることと、いかんせん2機目のノートとしては高いってことで、踏み切れないでいた。そんなところに、今日、たまたま型落ちのメビウスを安売りしているところに出くわしてしまったのだ。 Mac愛好者なもので、Windows機っていうのがマイナス要素だったが、持ち上げてみると、その軽さが迷いを押し切ってしまった。
●帰宅後、箱を開けてまず嬉しくなったのが、その取り扱い説明書たち。Macには全くないと言っていい、紙の説明書が、いっぱいついているのだ。そして、そのテイストは、どれもこれも懐かしい。 わたしは20歳から37歳に至るまで、シャープのワープロ、「書院」をずっとずっと使い続けた人だ。最初の1台こそ、売り出しはじめの東芝ルポ(液晶が2行分しかなかった!)だったが、以降、ずっと3台の書院で、書き続けてきた。 あの頃の、取り扱い説明書と、ちっとも変わってない!
嬉しくなって、ぺらぺらとめくってみると、やっぱり内容は分かりきったことばかり。うんうん、それでなくっちゃ。初心者と呼ばれる人が、いかに早くマシンの核心をつかみマシンに心を開くかが、説明書のほぼすべての存在理由。 ワープロってものと出会うために、説明書を愛読書のように読みふけった頃を思い出す。
自分で言うのもなんだが、わたし、小さい頃から字がきれいな方だった。高校生の頃、ノートが自分の字で埋まっていくのが大好きで、そういう意味では勉強って奴が苦にならない人だった。 それが、親元を離れ上京して、何もかもが新しい世界に飛び込んで、「わたしって何?」と自問する時期を迎えると、自分の字が大嫌いになってしまった。ノートに手書きの字が並んでいるのを見ていると、「自分臭く」って、書く気が萎えてしまうのだ。
そして、ワープロと友だちになった。キーを打ったと同時に活字に変換されていくのが、実に心地よかった。自分臭さがその場で消えるんだもの。もう、毎日、あのラップトップを開けていた。書きながら考えることを覚えたのも、ワープロで書くようになってからだ。この即変換書きに慣れてくると、ようやく、手書きで書くことの喜びが戻ってきたりした。面白いものだ。
初代書院は20代の頃ともだちに譲り、2代目3代目は、捨てきれず、物置に眠っている。物置整理をする時には、つい箱から出して電源をいれてみたりしてしまう。何度聞いたか、その起動音。懐かしいぼこぼこのキータッチ。今思えば、あまりにも面倒な操作性。でも、本当に大事な、ともだちだった。
懐かしのワープロたちを思い出しながら、軽量メビウスを使えるものにしていたら、あっという間に時間が過ぎていく。その軽さにまた、「あの頃は重い重いラップトップを抱えて、新幹線に乗ったりしてたんだよなあ」と、またしみじみ。 物は物でしかないけれど、人の時間がしみこむと、そんな風に愛おしいものに変貌する。捨てたもんじゃないな。
と、なんだかわたしは調子を取り戻してきたようでもあり。
さて、旅の仕事まで明日1日となった猶予期間、どう過ごそうか。
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