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2003年05月31日(土) 愛すること。愛されること。

●午前4時。恋人が仕事を終えて家にやってきた。
 働き過ぎ。責任の重い仕事が途切れることなく続いて、緊張の溶ける暇もなく。……台風風の音だけが聞こえる夜にドアチャイムが響き、扉を開けたら呆然と彼は立っていた。
 青春期から、相当な時間とお金と愛情をお酒に注いできた彼が、お酒の飲めない体になっている。シャワーを浴びる彼を待ちながらジンリッキーを作って飲んでいたわたしを、バスタオルで体をくるみながら羨ましげに眺める。そして「お腹が空いた」と言う。
 その時間で胃に負担がかからないものと言ったら……と、お茶漬けを作る。冷蔵庫にあった塩鮭を焼き、冷凍してあった玄米を解凍し、焼きあがるのを待っている間に、ゆうるりと彼の体をマッサージしてあげる。触り慣れた体、自分の体とおんなじくらいよく知っている体の、凝りに触れ、さすり、あたためてあげる。
 午前5時、彼は鮭茶漬けを食べる。肩を落として、でも、「美味しい」と言いながら。ちゃんと食欲があるのでわたしは安心する。
 おかわりをして、食べ終えて、「もう眠ったら?」と促すと、「もうちょっとだけマッサージして欲しい」と彼は言う。わたしは「足をさすって欲しいんでしょ?」と答える。「君はエスパー?」と彼が言う。
 アスリートレベルに達している腕の筋肉を存分に使って、彼の足の裏からふくらはぎをマッサージしてあげる。そして彼は、眠りにつく。うちのベッドは小さくて二人だとゆっくりできないので、これを書き終えたら、わたしはソファーでやすみ、10時になったら、彼を起こそう。

●今日1日あったことなんて、恋人が訪れたことで、何もかもふっとんでしまった。ライ麦畑を読み進んで、女子高生だったわたしにはさっぱり分からなかったホールデンの心持ちが手に取るように分かり面白いと思ったりして、今日の日誌はそのことだけでも埋まったはずなのに、今や、ホールデンなんてどうでもよくなってしまった。
 A氏は、わたしが恋人の体調を気遣って「しばらくこないでほしい」と伝えたことばを真っ向から受け止めつつ、「それでも僕の方があいつより愛しているし、君が寂しいと感じるならいつでも駆けつける、それがあいつに会えないから寂しいという感情であっても」というようなメールを送ってきた。そんなA氏の気持ちを知りながら、わたしはシーツだの布団のカバーだのを全部新品に取り替えて、恋人を待っていたのだ。なんなんだ、わたしって女は。
……A氏は、今日、息子の運動会だ。もう早起きして、きっとお弁当を作り始めているに違いない。出来得れば、わたしと共に息子を眺めたいと願いつつ。
 この間、早朝わたしにメールを書いていたら、知らぬうちに息子が後ろにいて、「あんなに美味しい朝ご飯は久しぶりでした……」と、小学校3年生の息子が声に出して読み出したらしい。慌ててノートパソコンを閉じるA氏の姿が目に浮かぶ。微笑ましい。
 現実は。一度に二人の男を愛することはあっても、一度に二人の愛情に答える女であることは、ありえない。絶対に、ありえない。
 
●恋人の寝姿を、そっとのぞいてみる。わたしの視線を知ってか知らずか、彼は窓の方に寝返りをうつ。
 他者を愛するというのは、なんて幸福で、なんて重労働なんだろう。
 20代なんて、二人三人かけもちしたって、わたし、平気だった。それが今は。でも、逆に、思う。歳をとるのは、存外素敵なことかもしれない、と。苦しみもだえつつも、そう思う。人を愛することがなくって、人生にどれほどの意味がある? 自分を思い、A氏を思い、恋人を思い、そう思う。


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