Opportunity knocks
DiaryINDEX|past|will
2004年09月30日(木) |
それでも明日という日はやってくる |
今日ほど気持ちが浮き沈みした1日はないとおもう。
朝から上昇気味だった気持ちが午前中にいったん冷め、 お昼過ぎにまた上がり、 そのままいくかと思ったら、 夕方、急転直下のごとく奈落の底におとされ、 その一時間後、 ある奇蹟がおこって奈落の底どころか天国にいるような気分になり、 今日はやっぱりハッピーデイだ、なんて思っていたら、 夜、底無し沼につきおとされたかのような出来事が再びおこった。
現在、無気力状態。
なんのことだかわからないですよね・・・
そんな日もあるのだ、ということで寝ます。 明日は今日よりましな日になりますように。 というかそういう日になるよう何よりも自分が努力しなきゃね。
おやすみなさい。
吉田修一「パレード」 たったいま読了。 読了の感想。なんともいえない気分。 たとえていうと、おいしいな口当たりいいなと思って飲んでいたスープの底に、訳の分からない虫が沈んでいたのを発見したときのような。
それまでおいしいなあと思ってたスープの中身が実はとても得たいの知れない気持ちのわるいものみたいに感じられた。そんな感じ。
自分でもなんでこんな感想なのかよくわからない。 やっぱり最後の展開がそう思わせるのかな。
上辺だけの心地良い生活、他人に干渉せずまたは干渉されず、しかもある程度のあたたかみを約束された場所、人は誰でもそういうものを求める時期があるのだとおもう。それは人生における猶予期間みたいなものなのかもしれない。でもいつまでも続くわけじゃない。それを認めようとしない人間はそれなりの代価を支払う事になる。 そういうことなのかもしれない。
自分の中では評価の分かれる小説。好きかときかれると・・・今のところ否。 再読すればまた違うものがでてくるかも。 でもたぶんずっと先までしないだろうな。
最近、週2,3回プールに泳ぎに行っている。 どちらかというとかなづちに近いのであまり距離は泳げないのだけど、50m泳いだら100m歩く、疲れたらビート板を足に挟んで泳ぐ、という感じでかなり運動にはなっている。時間にして約1時間程度。
なにかあったら自分の体にあたる、というのは正しい、そうおもう。 今日も大体1時間泳いだ。すっきり。
帰りにふと目をあげると月がでていた。朧月みたいな満月。 煌々と輝く白い月も良いけど、ぼんやりかすんだ優しい色の月も良いとおもう。
家に帰って月見団子をたべながらお茶をのんだ。 そんな仲秋の月夜。
朝からずっと雨降りの一日。 めずらしく午前で仕事を終えて家にかえってきた。 掃除機をかけたり洗濯物をたたんだりしたあと、 ソファに寝転んでしばし読書。 ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」この人の感性もさることながら、その観察力や洞察力にも感心する。
第三者から見た日本、そして第三者が愛した日本という国のことを考える。 まだまだよみはじめなので、時間をかけてじっくり読もうとおもう。
+ + + + + + + + + +
朝からの雨がやっとやんで、待ちかねたように虫たちが鳴いている。とってもにぎやか。 ベランダから空をみてみると雲の切れ目から月がみえた。 そういえば明日は十五夜だったっけ。晴れるといいな。
新撰組!をみる。 密かにファンになりつつあった河合喜三郎が切腹になってがっくり。 でもこの役演じてる大倉孝二はけっこう良いとおもう。「光るとともに」でてたのをはじめてみたのだけど、何となく目がいくというか、なんか気になる。
新撰組はどうやら傾きはじめた感じ。今日の話は象徴的だった気がする。 終末までの後少し、いろいろ感じながらみたいと思う。
+ + + + + + + + + +
新撰組!が終わってからコドモの勉強に付き合う。 理科。・・・。 すんごく苦手だった理科。 この問題がわからない、とコドモがいうのでみてみた。
問題 抵抗が30Ωと60Ωの2つの電熱線を並列につなぎ、電源の電圧を9Vにして回路を作った。回路全体の抵抗は何Ωか。
抵抗を求める公式にあてはめてみればいいんじゃないの? と考え、計算したのはいいのだけど、答えが違う。 え?10Ωじゃないの?
なんで答えが違うのかをつきとめるまでに結構時間かかりました… だめだねかあさんは、というコドモの視線に耐えつつ。
あー疲レタ。
最近禁煙をはじめた友達がいるのだけど、禁煙というものはそれはそれは苦しいもの、らしい。想像するにかなり依存度の高いものを日常から排除するわけだからそれはきっとほんとうに苦しいものなんだろうとおもう。煙草には中毒症状をひきおこす物質が含まれているから、精神的にはもちろん肉体的な辛さも相当あるような気がする。
前にも書いたのだけど、それがなくてはいてもたってもいられない、という状況をつくるのが嫌なので、なるべく何かに依存することを意識的になくすようにしている。煙草もそれのひとつ。ようするにそれをやめたとき(あるいは強制的にやめざるをえない状況になったとき)の七転八倒の苦しみをあじわいたくないから。たとえば煙草、たとえば・・・。
それにしても自分のことじゃない限り、人が七転八倒している姿はみていてあきない、 というか興味深い、というか正直言うとかなりおもしろい(ごめん) それでも煙草に関しては周知のごとく健康の妨げになるものなので、無事禁煙できるようにできるだけサポートしてあげたいとおもう。
先週から足を酷使しすぎたせいか、腱鞘炎になってしまった。 つま先を上下させるとぎしぎしという音がきこえる。 ぎしぎしというかみしみしというかぎいぎいというか。
腱は刀でいうさやみたいなものの中に入っていてそこで前後に動くようになっているのだけど、その鞘がはれると腱の動きが悪くなる。それが腱鞘炎という病気で、さらにひどくなるとぎしぎしという音を発するようになるらしい。 自分だけにしか聞えない音なのかと思ったのだけど、そのぎしぎしいってる場所をさわると他の人にもわかるみたいで、コドモにうわーなんか中から音してるよー母さんの足!、と気味悪がられてしまった。
動かすといたいので、痛み止めをぬったあと足首からつま先にかけてテーピングしてみた。少し痛みが和らいだ気がする。
それにしても自分の体の中からきこえてくる音というのは結構興味深い。外見からはみえない内側で、いっしょうけんめい動いてるんだなとなにやらいとおしくなってしまう。 そんな感じでいたみに顔をしかめながらもつま先をうごかしてああ音がする・・・なんてつぶやいてます。かなり変。
昨日のお昼に本読みしながらぐっすりお昼寝したせいか眠気がまったく来ず仕方なくまだ1時間しかたってないけど今日の日記でもつらつら書くことにしようと思いつつ何を書こうかなとふと考えるととくに書く必要の無い事ばかり浮かんで来るのでどうしようかななんておもって思案にくれているわけでそんなしようもないことを考えてる時間があったら目をつぶって寝る努力でもすればいいのだけどやっぱりそんな気分でもなくてでも今寝ないと明日たぶん眠くて仕方ないだろうなとおもいつつまったくどっちつかずなことを考えているそんな自分に半ばあきれていながらそれでもまだPCの電源を切れないそんな秋の夜長なのだけど虫の音が相変わらずにぎやかでそれで気になって眠れないのかなあなんてでもそれはただわたしがお昼寝をして眠れないというのをなんの罪も無い虫たちに責任転嫁しているだけで虫たちにはなんの責任もないというのはじゅうじゅうわかっているのだけど9階という比較的上層階に住んでいるのに虫の声がすぐ近くにきこえるかのように明瞭なのはなぜなんだろうといぶかしみながらやっぱりうるさくって眠れないんだって少しは虫の責任にしたい自分がいるんじゃないかとおもいつついやそれは違うとおもう自分が反論してなにがなんだかわからなくなりながらもふとさっきたべたもらいもののコーヒーゼリーに含まれていたカフェインが原因だったのかと思い当たりとなると虫たちの責任にした自分の身勝手さがせめられこころなしか虫の音も非難するように大きく鳴り響いてるように感じられその結果ますます眠気がなくなり・・・。
ほんとにいいかげんねなきゃ。
ドン・デリーロ「ボディ・アーティスト」 まだうまく消化できてない部分はあるのだけど、一応ひと区切りということで。
冒頭の部分。こんな完璧な文章を読んだのはたぶんこれまでの読書人生の中ではじめてだったとおもう。言葉というものが持つ力をまざまざと見せられた感じ。 何かが起こる予感、予感をはらんだ時間、そんな時間を誰かとともにすること、 そしてその時間は繰り返されないということ、時間というものの不確かさ、一瞬にして現れそして消えてしまう世界の揺らぎ、そんなものを感じた。
ボディ・アーティストという言葉はまだわたしの中ではっきり理解できていないのだけど、想念(または記憶)というものはいろいろな形をとって現れるものではないかとおもう。それが彼女にとっては自らの肉体だったんじゃないかと。
うーむむむむ。文章にしようとすると、いかに自分が読みきれていないのかがよくわかるなあ。
何かがその中でメッセージを発しているのが感じ取れる。何かがぴくぴくしているのを感じ取れるのだけど、そのぴくぴくは手に取ろうとした瞬間に気配をなくしてしまって、その手触りを正体を確かめることができない、そんな感じ。手のとどかないもどかしさ。
あー、なにを書いているやら。 とにかくたぶん死ぬまでに何度も読み返す、そんな小説であることは間違い無いとおもう。才能、っていう言葉が重みをもって感じられる、そんな小説。素晴らしかった。
夢をみた。 何年も会ってない人がでてきた。 まるで夢のようだとおもったら やっぱり夢だった。 前にも一度その人の夢をみたことがある。 夢みたいだ、とそのときもおもった。 また消毒薬の匂いがした。
2004年09月18日(土) |
旅と人生についておもうこと |
5月の終わり頃からNHKの旅番組をみていた。 北海道の稚内から九州の肥前まで片道切符を持って旅する番組。 この番組を見て、JRにその片道切符というものがあるのをはじめて知った。 片道切符といってもただの片道切符ではなくて、56日間の間JRの路線なら自由に途中下車ができ、特急や新幹線も自由に使うことができる(料金は90870円)。 ただし、片道切符なので一度通った駅に戻ることはできない。旅人は関口知宏さん。 番組自体は6月の中頃に終わったのだけど(始まったのは今年の4月くらいだったかな)今日はその総集編をやっていた。
旅のはじめに関口さんが、数十日も電車にのり続ける旅って何かの意義を見つけないとただきついだけになってしまう、というようなことをいっていたのが印象に残った。そしてなんとなく、それがこの番組にひかれた理由だったのかなと気付いた。 要するに、どんなささいなことでもいいから何かを見出すこと。自分にとっての意味を考えること、それはたぶん、日常の生活にあてはまることなんだとおもう。えんえんと続く日常の中でささいなよろこび、かなしみ、おどろき、様々な感情を能動的に探していくこと。関口さんも長い長い鉄道の旅の中で、何かを自分の視点で探し、意義を見出していたとおもう。そういう旅だったとおもう。 旅と人生ってやっぱり同じものがあると、関口さんの旅を目にしてそうおもった。
宅間守の死刑が執行されたのを知った。 去年判決がでたときのことを思い出した。
異例の早さで刑が行われたわけだけど、はたしてそれは良かったのか悪かったのか。
一人の人間が大勢の人間の認証のものに生命を絶たれることについて今まではそんなに深く考えなかったけど、今日はいろいろなことを考えた。死刑制度について。
死刑を執行される直前、彼は何とおもっただろうか。涙を流したのだろうか、流したとしたらそれは何に対して流した涙だろうか。うれしい涙だったのか、悲しい涙だったのか、無念の涙だったのか。 命がなくなる瞬間に苦痛を感じただろうか、死んだ子どもたちに思いをはせただろうか、自分がしたことの意味を理解しただろうか、命を奪うことの意味を知っただろうか。
死んでしまえばもう何もわからないとおもう。知るべきだったんじゃないかと個人的にはおもう。でももうなにもわからない。それが今日行われたことなんだとおもった。
2004年09月13日(月) |
先天的なわたしと後天的なわたし |
、について考える。
先天的なわたしはたぶんかなり自分勝手で気侭でいいかげんな人間だと思う。 まあ良く言えばポジティブ人間。何の遠慮もなくしたいことをし言いたいことをいう。人やまわりのことはあまり考えない。
後天的なわたしは違う。やりたいことがあればそれにブレーキをかけ、自信を無くさせ、常に悪い結果を想像する。まわりのこと考えなきゃ、自分の勝手にはできない、何したってだめだよ、うまくいきっこないetc…
育った家庭環境の影響や、生きていく上で持たざるを得なかった責任みたいなもの、そんなものがたぶん後天的なわたしを作ったのかもしれない。
時々先天的なわたしが後天的なわたしにささやく。 悪魔のささやき。 先天的なわたしがささやくことはたいていろくでもないこと。
後天的なわたしは頭をぶんぶん振ってそれを追い払おうとする。
そんなふうにいつも違う自分がせめぎあってる気がする。
米中枢同時多発テロから3年たった。
一昨日みた「華氏911」のことをまた思い返す。 そして真実はどこにあるのだろうとおもう。 それとも真実とはある一部の人間が作り出すものなのだろうか。
とにかく何かを学ばないと、犠牲になった多くの人(テロに巻き込まれた方、戦争でなくなった方)に申し訳ないと思う。 同じ過ちを繰り返さないためにできること、多くを知ろうという気持ちや自分の頭でしっかりと物事を考えることなどなど、ささいなことだけど自分にできることをやっていこうと思う。 大切なものを守るために、手放さないために。
某Kさんに、とっても良いバンドを教えてもらった。 サイト行って試聴してみたらほとんどひと聴きぼれ状態。
近々ライブがあるそうなので、聴きにいこうかなと目論んでいる。 たのしみたのしみ♪
2004年09月09日(木) |
patriotism |
マイケル・ムーア「華氏911」
愛国心、ということをおもった。 この監督はほんとうに自分の国を愛してるんだな、と。
反ブッシュ、という一面だけが注目されているけれど、 それだけじゃないんじゃないかな、とみていておもった。
自分の国を支持する、自慢することだけが愛国心じゃない、とおもう。 要は大切にしようとする気持ちなんじゃないのかな。 それがたとえ批判という形をとったとしても、 心にそういう気持があればそれは正しいことなんだと、そうおもう。
ほんとうについ先日、村上さんの新刊(書き下ろし長編)がでることを某Barで知ったのだけど、その瞬間、いつもよりさめている自分がいることに、ふと気付いた。
うーん、醒めているというのとはちょっと違うかも・・・。 とにかく発売当日に本屋に直行してその日のうちに夜通しで読了、という気持ではないということ。少なくとも。
前作の「海辺のカフカ」がいまいち消化しきれていないというのもあるかもしれない。海辺〜がでてから2年たったというのに結局1回も再読しなかったし。 そのことを連れ合いにぼそっといったら、それはNの視界が多少なりと広がったってことじゃないの?、なんて言われた。Nにとっての村上春樹という作家の存在が、ごまんといる小説家の一人になったということじゃないか、と。
そうなのかな・・・としばし考える。 でも、もう村上さんが自分の中で特別ではなくなったかというとけしてそうではない、とおもう。実際、世界の終わり〜や、ねじまきなどは今でも読み返しているし。 でも・・・。
とにかく読まないということはないので、読んでからまた考えようと思う。
「いただきます」をしてまさに夕食をたべようとしていたときだった。 かなり長い間揺れたと思う。この土地へきてから最長かも。
まっさきに食卓のテーブルにもぐる父と子、たぶん学校での訓練などで身についたのだと思う。とっさの判断。それはいい、それはいいのだが、なんとわたしが隠れるスペースがないじゃないか。 そんなことにまったく気付く気配も無い父と子。まだゆれてるよおおお、とナサケナイ声をかけあっている。 揺れがおさまったあと、 「あのさ、ふたりでテーブル占領しちゃってさ、かあさんの隠れる場所なかったんだよ!」と文句。「あーゼンゼン気付かなかった」と二人。
とさんざんな夕食だったのだけど、その5時間後、またしても地震。 今度もかなり揺れた。 地震の怖さというのはちょっと特別かもしれない。遺伝子に組込まれたかのような本能的な怖さみたいなものがある。
今の時刻は0時56分。二度目の地震から1時間近く経ってるけれど、まだどこか揺れる感覚が残っている気がする。 どうか、いつもの朝を迎えられますように・・・。
さっきまで連れ合いとETV特集を見ていた。 夜回り先生こと水谷修さんのドキュメント。 江川紹子さんがインタビュアーでところどころ対談を交えながら、 水谷さんのこれまでの活動が紹介されていた。
心に強く残る言葉がいっぱいあった。 実際的な言葉もいっぱいあった。 現実に役にたつこと、自分が困ったときほんとうに助けとなる言葉。
いろんなことがあって、その結果自分を究極的に追いつめることで水谷さんはこれらのことに対する原動力を得ているんだろうな、ということを思った。
わたしにはわたしのできることを、水谷さんのようにできなくてもいいから、自分なりに自分の頭で考えながらやっていければ、とそう思った。
職場にひとつ、頭蓋骨が置いてある。 模型、ではなく本物。 先々代の(わたしの職場は三代続きの歯科医院)頃から置いてあって、 どういう経緯でここにきたのか誰も知らないとのこと。
静脈や動脈、洞溝や縫合の名前など、細かい字で書きこみがしてある。 ぱっと見た感じはただの模型に見える(大抵の人は模型だと思って何の気にもとめない)のだけど手に取って見るとまぎれもなく本物の骨だとわかる。 それは持った感じの感触とか色とか質感とか、骨小柱の緻密さなんかを見れば何となくわかる。それにその頭蓋骨には特徴がある。かなり歯が前にでている。つまり出っ歯であるということ。出っ歯の模型をわざわざ作る必要もないから、たぶんかなりの確率でそれは本物の人間の頭骨ということになると思う。
かなり歯の丈夫な人だったみたいで、親知らずまで綺麗に生え揃っている、欠けた歯もなく、みたところ虫歯になっている部分もない。でも、だからこそこの頭骨はこうして骨見本となってここにくることになったのかもしれないなと思う。昔は本物そっくりの模型を作る技術などはたぶんなかっただろうから、歯並びのよい人間の頭骨を模型代わりに使ったのかもしれない。あくまで推測だけど。
その頭骨は窓際の良く日があたるところに無造作に置かれている。 その頭骨に皮があり肉があり血が通っていたときのことを、その頭骨をみるたび考える。どんな人間だったのか、とかどんな死に方をしたのか、とか。 まさか死んだのち、自分の頭蓋骨が名もない歯科医院の窓際に置かれるとは思わなかっただろうな。
皮も肉も血も骨も、生命がなくなればただの物質すぎない。誰でも生命が無くなればただの物質になってしまう。でも生命があるうちはただの物体じゃない。生命と一体になって、皮も血も肉も骨も動く。神経も細胞もランゲルハンス島もランビエ絞輪も松果体も。 そう考えると今自分がこうしてそれらのものを総動員して生きているのが途方も無い奇蹟のように感じる。自分が今生きていること、そしていずれは生命が消え、ただの物体になる日がくるということ。
うっすらと積もった埃を払いながら、今日はずっとそんなことを考えていた。
|