Opportunity knocks
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朝、目をこすりながらぼんやり新聞を読んでいたら、新日曜美術館のところに速水御舟の名前があったのであわててテレビをつけた(9時ちょっとすぎ)
3年前、ある方から葉書をもらった。 宛名があって文面があって裏には御舟の絵があった。 「春の宵」という題の日本画でほとんど無彩色、 薄墨の桜と薄く削り取られた三日月が静かで濃密な春の夜を感じさせている。
ひとめ見て吸引された。葉書の文面のせい、もあったかも。 それ以来なんとか直に自分の目でみたいとかなり展覧会もチェックしているのだけどいまだその機会持てず。
新日曜美術館の方は、代表的な作品を紹介したり、それについてのコメントを(あまり好きではないというかどちらかというと嫌いなというかはっきりいうとかなり嫌いな)村上隆氏がしていた。
「名樹散椿」と「白芙蓉」いつかしっかり自分の目でみてみたい。 東京の九段下というところに山種美術館というところがあって、速水御舟の作品を多く所蔵しているらしいので、機会をみつけて見に行きたいと思っている。
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人生を確信的に生きている人よりは、どちらかというと迷いに迷いながら生きている人がすき。迷いのない人生なんて無味乾燥で底の浅いもののような気がする。迷うことで何らかの代償を払うことがあったとしても、常に迷いながら考えながら生きていたいとそう思う。
友達7、8人とHA宅で秋鍋。 いちおうベースはキムチ鍋なのだけど、つみれやらきりたんぽやらチンゲンサイやら大根やらいっぱい入れてわいわいいいながらたべた。
あっというまにビールの空き缶の山。そしてわたしはというともっぱら食べる方に専念。というかわたしダイエットしてたんじゃ? 一晩で2,5k体重が増えた。ありえない。
書きたいことがあったのだけど、 そして四苦八苦しながらさっきまで書いていたのだけれど、 うまくまとまらないので全部消してしまった。 また次の機会にかこうと思う。書ければ、だけど。
部屋の灯りを消したら、月が今夜はとっても明るいということに気付いた。 そうか、今日は満月だったっけ。 月明かりで部屋の中がぼんやりかすんでいる。
手をかざして影をつくってみる。 薄いグレイがひらひらと動く。
月の光はどちらかというとすきだ。 弱々しくて、でも何かしら言いたげで。
明日はけっこうハードな一日になる予定。 がんばらなきゃ。
サンボマスター「月に咲く花のようになるの」 余りにも気に入ったのでCD買ってしまった。
今日はとっても最悪な出来事が起こったのだけど、これを聴いていたら少し元気がでた。
音楽ってやっぱりいい。
「グッバイ、レーニン!」
良かったです、とっても。 東西統一って一言でいっちゃうとただの歴史的史実になってしまうけれど、実際にそれを体験した人にとってそれはただの史実ではないのだということ、まあ当たり前といえば当たり前のことなんだけど、それが映画の中で上手く表現されていた気がする。
もし今暮らしている社会の体制がひっくり返ってしまうようなことが起きたら、 価値観やそれまで生きていた常識を転換せざるをえない状況が起きたとしたら、いったいどうするだろう。 たぶん、主人公の親子のように、葛藤しながら、そして少しずつ諦めながら、それでも何らかの希望を持ちながら生きていくしかないんだろうな。 そのときに必要なのはやっぱり人と人との結びつきなのだと思う。 誰かを守ろうという気持ち、守りたいという気持ちが最後は自分を支える力になるのだと、そう思った。 とても良い映画だった。
2004年10月21日(木) |
台風一過 街へでる 映画鑑賞 車窓から |
久しぶりにひとりの休日。 映画を観るため、電車に乗って街に出る。 買ったばかりのジャケットとそれに合わせて買った靴を履く。
台風一過の青空。吹き返しの風で髪は致命的なくらいくしゃくしゃになる。 それでも歩いてて気持ちの良い天気。 映画館について時間をみてみると1回目が過ぎてしまっていた。2回目はお昼過ぎ。 時間つぶしに映画館周辺を散歩する。 輸入雑貨のお店があったので覗いてみたら、先日読んだ「神様のボート」にでてきたチョコレートがあったので、つい買ってしまった。
“チョコレートは勿論、ママのいちばん好きな赤い箱のリンツ…”
文章のトーンをしばし思い出す。どんな味がするんだろう。たのしみ。 そして映画。 「恋の門」
良いです、この映画。くどくて濃くて意味もなく不条理で。こういうの好き。意外と。 もうこれ以上いくと悪趣味になるぞ、っていう一線でぎりぎり踏みとどまってセンスの良さを(なんとか)保っているところもまた良い。 松田龍平が良かった。もっと不器用なタイプなのかと思っていたらいろんな面を見せてくれて非常に楽しめた。 あと小日向文世さん。まさに不条理。何かやってくれると思ってはいたけど、想像以上。あれは彼にしかできない演技だろう(と黄八丈さんもいってくれるだろうたぶん)と思う(あー思い出し笑い) この映画はいろんなキャストが悪夢のように入れ代わりたちかわりでてきて、それをチェックするだけでも非常にたのしい。田辺誠一と片桐はいりのカップルとか三池崇史のあやしげなコスプレ店長とか。それでも見落とした人がけっこういっぱいいた。安野モヨコ、内田春菊、尾美としのり、原作者の羽生生純、などなど。 個人的に(かなり)気に入ったのが小島聖の妖女ぶりと清志郎の歌(これは当然といえば当然)。気に入らなかったのは大竹まことの中途半端な演技、くらいかな。
宣伝文句にファンタジーとリアルが共存、とあって、何となく納得した。 ファンタジーでありギャグである部分が現実の中にもあるんだってこと。 また観てみたいと思えるような映画、だった。
映画の雰囲気を残しつつ帰途につく。 映画観た後、ぼんやりしながら歩くのがとても好き。 いろんなものが普段よりもまして気持ちの中に入ってくる。 夕暮れの空に薄く光る月とか、青い空に映える柿の実の朱色とか、稲の籾殻を焼く匂いとか。 帰り際、窓の外のそんな景色をぼんやり眺めていた。 とても(P氏の言葉をお借りして云うなら)幸せ度の高い一日だった。小確幸。
「神様のボート」 実をいうと江国香織の小説を読むのははじめてだったりする。
読みながら、これはある種の共通理解を前提にした文章なんだなということを思った。 例えばこんな文章。 「一度出会ったら、人は人をうしなわない」 たぶん、戦中戦後の人間がそういう文章を読んでもたぶんその意味というか云わんとしていることを十分には理解できないだろうと思う。この時代を生きているものたち、この時代の雰囲気を頭ではなくて感覚として理解できるものたちでないと、この文章は生きてこない。 そう考えると、昨今出ている小説というのはそういう部分が多分にあるのではないかと思う。それはそれで良いといえば良いのだけど。 三島由紀夫を読んだあとだからそういうことが気になるんだろうな、たぶん。
確かにこの小説には狂気というものが書かれている、と読みながら思う。ボートに漂いながら静かに確かに浸蝕していく狂気。それは三島由紀夫があの時代に感じていた狂気ではなくて、今のわたしたちが感じる狂気、共有できる狂気なんだろう。
三島由紀夫「午後の曳航」 久しぶりに(比重の)重い小説を読んだという感じ。 わたしが今まで好んで読んでいた小説というのは、形にならないものや目に見えない感情なんかを文章に興していくようなそんなタイプの小説だったのだけど、三島由紀夫はまったくそうではない。何て言うのかな、これ以上はないっていうくらい確信的に言葉を使う。そしてその世界は破壊に満ちている。何かを作り上げるという行為とは対極にすべてを壊したいばらばらにしたいこなごなにしたい、そういう衝動のようなものが文章の端々に感じられる。 前回読んだ時は猫殺しの場面で耐えられなくなって本を閉じたのだけど、今回は最後まで読む事ができた。感受性が鈍くなったのか耐性ができたのかすべてを包容する強さが生れたのかはよくわからない。
最後まで諦めないってよく使ったり言ったりする言葉だけど、人生において何かを上手く諦めることもそれと同じくらい大切なことなんじゃないかなと読んでいて思った。「諦めないこと」が自分の中で積もりに積もってしまうと、人は見えない何かに縛られたように身動きすることができなくなるんじゃないだろうか。 そんなことを思った。 今度は「金閣寺」を読もうと思う。
すばらしく綺麗な青空の一日。 午前中で仕事終わって、自転車こぎながら帰宅。 そこらかしこに金木犀が咲いていて、 気が遠くなるくらい涼しげな匂いが漂っていた。
夕飯の下拵えをしてから、 大きく開けた窓のそばで本読み。 三島由紀夫の「午後の曳航」
三島由紀夫はあまり進んで読んだことはないのだけど、 何となく読んでもいいかなという気分だったので手に取ってみた。 (日本文学はもっと寄り好みせずに貪欲に読んでいかないといけない気がする) 昔読んだ時と比べてそんなに抵抗はなくなったかな。 客観的に読み進めていこうと思う。
三連休も終わり。 何をしていたかというとほとんど家にいた。 コドモの試験勉強に付き合ったり、本読んだり転寝したり。つれあいと大喧嘩したり。 出かけようと思えば出かけられたのだけど、 ほんとうは図書館にいったりプールにいったりもしたかったのだけど、 根が生えたようになぜか体が動かなかった。
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ニュース番組をぼんやりみる。 台風で家を失った人、家族をなくした人、射殺された可哀相な熊たちのことを、ぼんやり考える。 なぜかどこか遠いところで起こった出来事のように感じられる。
明日からまた仕事なんだ。 がんばらなきゃ。
台風前夜。 なんだか頭の中がざわざわして落ちつかない。 体は眠りを要求しているのに、 頭はそれと逆の方向。 最近そんな夜が多い気がする。
仕方ないから一句。
窓のそと眺めながら、物思い。 雨の音強く、所在ない夜
久しぶりに会う友達とご飯をたべにいった。
デパートの前で待ち合わせた。 変ってなかった。 変わらないね、と言い合った。
いつもよりましな、というかまともなところでご飯をたべた。 (テーブルにつくとき給仕の人が椅子をひいてくれるようなところ) おいしかった。 黒米とモツァレラチーズのコロッケのバルサミコソースがおいしかった。 ゴルゴンゾーラのファルファッレもおいしかった。 もちろんデザートの洋ナシのコンポートとティラミスもおいしかった。 しあわせな気持ちになった。
いろんなことを話した。 会ってる間中しゃべっていた。 沈黙がないくらいしゃべった。 とってもたのしかった。
早めに帰るという友達を駅で送ってからひとりで買い物をした。 いつもいくお店で和菓子(くりきんとん)と魚(銀だら)の切り身(粕漬け)を買った。
T島屋をぶらぶらした。 相変わらず買いもしないのに紳士売り場をうろついた。 家具売り場もうろついた。 (タオルとかベッドカバーとかそういうリネン類をみるのも好き。いちばん行かないのはジュエリー関係と化粧品関係のフロア)
コーデュロイのショートジャケット(キャメル色)を買った。 連れ合いに似合いそうなジャケットがあったのでそれも買った。 本を買った。 キルフェボンでタルトを買った(もちろんひとりでこっそりたべる) とにかくけっこう買った。
買い物袋を抱えて電車にのった。 車窓から青い空と薄いオレンジ色の空が見えた。 素晴らしく綺麗な夕暮れだった。 良い一日だった。
ウォン・カーウァイの「2046」 かなりたのしみになってきた。
カーウァイ監督のインタビュー記事↓
「作家は一生のうちで自分が大事だと思う時間を集めて、小説の中に詰め込む・・・中略。忘れないということはいつまでも過去にならないってことで、それが現在の生活を複雑にし、彼を苦しめるんだ。」
主人公の男に対しての言葉だったのだけど、 なんとなくぐっときた。
日々いろんなことを忘却する一方で、決して忘れることができないことも厳然と存在する。それは過去のことであって過去のことでないわけだ。自分の中で綺麗に忘れることができればそれはその瞬間に過去にかわる。そして忘れられない限り、それは背中にしょった大きな荷物のようにその人をどこまでも苦しめるってわけ。
ああ、人生ってほんとうにそんなものかも。
「アフターダーク」
一晩かけていっきに読んだので感想らしきものはまだうまく書けない。 でも実験的な小説というのはある程度的をえているような気がする。 これからどんなものに派生していくのかたのしみではある。
個人的にいうと、もっともっと長いものが読みたい。 もっと個人的にいうと、歴史的スパンの長いものが読みたい。 いくつもの流れが複雑に絡み合って頭が痛くなるくらい緻密な小説。
なんのかんの言ってもずっと読みつづけるんだろうなあ。 そうおもった。
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その昔、村上春樹さんに夢中になった時期。 といっても今もまあ夢中といえば夢中なんだけど、 その時期はもっと特別に夢中だった。
外に向かって逃げに逃げるというか、 逆に高い壁を作って他者の介在を許さないというか、 そういう小説の核みたいなものにすごく憧れた。
自分の中にそういう渇望があったにもかかわらず まわりがそれをわたしに許さなかったため、 わたしはずっとそういう渇望があることに 自分自身気付かなかったのだとおもう。
今もそれはある程度変ってはいない。 というか自覚したぶんだけそういう渇望は強くなっている気がする。
わたしはたぶん春樹さんの小説がわたしの望む世界であることを願っている。 でも春樹さんの小説はそれとは逆の方向へ進んでいこうとしている。
それがわたしには、すこし悲しいのだとおもう。
「誰も知らない」
胸がずきずきする映画だった。
親がネグレストであろうと何であろうと、子供は食べるものをたべ、笑う時は笑い、寝る時は寝る。 それは必要なことだから。でもそのことがこの上もなく残酷なことだと映画をみながら思った。
当たり前のことだから、こどもたちは淡々とそれを求めていく。たべるものがなければコンビニにいって賞味期限の切れた弁当やおにぎりをもらう、水道がとめられれば公園の水道で身体を洗う、温もりがほしければ兄弟でそれを分かち合う。子供達はそれが必要だからそうしている。けれど、どうしても手に入れることができないものがあることも子供達は知っている。
どうしてこんな残酷なことができるんだろうと思う。 胸が痛くて仕方なかった。
追記
この映画は作りがどうの表現がどうのという感じでみてほしくないなあと思う。 柳楽(漢字あってるかな)くんがカンヌの新人賞とったとかすごい演技だとか。
あの子供達はたぶん演技していたというより、あの映画の中にでてくる子供になりきっただけなんじゃないのかな。 見る者も子供達と同じように、残酷なまでに与えられた自由に対する不安、飢え、恐れ、悲しみ、などすべての感情を少しでも共有しなきゃいけないんじゃないかと思う。
社会派という分野でくくっちゃうと、教訓的な意味合いみたいなものが強くでてしまって馴染めないという人もいると思うけど、多少なりとも共感して同じ場所におりていくことをしなければ、こういう映画を見る意味なんてないんじゃないかと思う。
「マーサの幸せレシピ」 良かったー、好きですこういう映画。 ドイツ映画だけど堅苦しくなくて、でも言いたいこと伝えたいことがしっかりつたわってくる、そんな映画。良かった、ほんとに。
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夕方、(もろ映画の影響で)久しぶりに料理らしい料理をつくった。 良い牛すじ肉が手に入ったので、大根と一緒に煮る。あらかじめ下茹でしたすじ肉を酒、醤油、三温糖、唐辛子、にんにくのかたまりひとかけ、葱の青いところ、と一緒にくつくつ。すじ肉と調味料がなじんだら、面とりした大根をぽこぽこ入れる。 そのまま弱火で3時間程度煮こむ。大根とすじ肉がとろりとした飴色になったらできあがり。なかなか良い出来映え。
さらに友達と一緒に買った北あかり(北海道の農家から20kgも買った)を4、5個皮むきしてスライス。お湯にさっとくぐらせてから十分水気を切ってフライパンへ入れ、少量のバターとオリーブオイルでソテーする。 千切りにしたベーコンを入れ火を十分行き渡らせたあと、フレッシュのローズマリーを入れ、香りを飛ばさないよう少し火を通したらできあがり。あ、忘れてた、最後に黒胡椒をミルでひいてぱらぱらかける。
あと、トマトを湯むきしてスライス、モツァレラチーズとホウレンソウと和えてサラダ。豆腐と油揚げのお味噌汁に瓜の粕漬け、昆布の佃煮。
なんだか和洋折衷というかとりとめのない献立だけど、それでもなかなか良い感じにできた。じゃが芋は連れ合いとコドモが気に入ってあっという間に消えたし、牛すじ大根も箸でほろほろ切り取れるくらい柔らかくできて満足。
御馳走様でした。
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