| 2011年12月06日(火) |
なんでも訴訟することが『法化社会』なのか |
日経(H23.12.6)社会面で、巨人のコーチ人事を巡り、清武前球団代表が渡辺恒雄・球団会長を批判した問題で、巨人と読売新聞グループ本社が、球団批判で名誉、信用を傷つけられたとして、清武前代表に計1億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたと報じていた。
清武前代表の行為は、取締役の行為としては許されないものである。
しかし、名誉棄損が成立するかどうかは微妙ではないだろうか。
公共性、公益性及び摘示した事実が真実と信じるに足りる相当の理由があるという要件を充たす可能性はあると思うからである。
しかし、そもそも世間では内輪もめと見られている事件を、わざわざ訴訟を提起してまで解決することが妥当なのだろうか。
『法化社会』ということがしばしば言われる。
法化社会の定義を「紛争が生じたら法を使って解決していこうと人々が考える社会」と捉える立場がある。
このような定義によれば、読売グループによる訴訟も肯定的に評価されるかもしれない。
しかし、『法化社会』とは、行政国家に対する対抗概念、あるいは、紛争を暴力団など法律外の力に頼らない社会と捉えるべきでないだろうか。
そのように『法化社会』を捉えるならば、何でも裁判に訴えるのは法化社会とはいえないことになるだろう。
読売新聞は、日本を代表する新聞のひとつなのだから、内輪の争いにを裁判で解決しようとする前に、法化社会とは何かについてきろんと議論しておくべきではないだろうか。
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