ずっと考えていた。けれども何がそうさせるのか、私を突き動かそうとするものが何なのか、志向が、目的地が、理由が、わからずにいた。其れが、今日、不意に言葉となって浮かび上がった。
アイデンティティの所在。
居場所云々――といった話を私が此処でよく書くのは、物理的な意味合いでもあるのだろうけれど、そうではなくて、多分、アイデンティティの所在ということに関してなのだ。コミュニケーションを研究する身として、他者を知る技法と銘打って学んだ身として、異文化相互理解を考える身として、自己の所在に関しても思い続けてきたところの筈だ。 使用言語。血統。国籍。文化。……。
私のアイデンティティの所在が何処にあるのか、まだわからない。日本語は私のアイデンティティのひとつだと思う、けれども、必ずしも絶対ではない。「日本語」と言ってしまうにはあまりに幅が広く――私は私の「自分語」にアイデンティティを求めていて、其れが「日本語」に含まれてしまっているという、ただ其れだけのことなのだ。 血統・国籍、之に関しては語るまい。両親共に大和民族の血を引き国籍も紛うことなき「日本」だ。移民等々、考え得るあらゆるアイデンティティを考慮しても、私は其れを理解出来得ないのだ。理解出来ないということを、私は知っている。其の上で受容したいとは切に思うけれども。 文化。これはとても難しいこと。私は日本の所謂「古き良きもの」に惹かれる傾向がある。同時に欧羅巴の「古き良きもの」にも惹かれるのだ。神明造の神社、ゴシック様式の大聖堂、墨の濃淡、鮮やかな色彩美、餡子に干菓子、ケーキにクッキー、抹茶、紅茶、着物や袴、イヴニングドレス、婉曲な和語表現、ウーマンリブを思わせる英語のニュアンス、……等々。或いはそれらの醸し出す空気・雰囲気――アトモスフィア。近代文明が殺してしまった何か。そういうものも、私を構築する所在の所以となり得る。
――難しいな。存在の所在、なんていうものは。
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