2006年10月06日(金) |
生きる、演じる、信じる、 |
凛とした少女を演じさせたら右に出る者はいないね――――。
そんな風に、言われたことがある。
果敢無いあどけなさは少年性の模範と言えるし――、 生真面目過ぎる青年を演じさせて君に優る者は無いね――――とも。
演じるということに、別段抱く感情は無い。抵抗も無い。私は常に――其れが優等生としてであれ、良い先輩や後輩としてであれ、或いは気の許せる友人としてであれ、娘とか妹とかなる立場であれ――常に、演じている、演じ続けているし、其れに関して気負いも気概も無い。私の日常。其れが、演じることであっただけのこと。 こういうことは決して珍しいことではないだろうとも思っている――恐らく誰もが知ってか知らずかは無しに日常の中で演じている。意識していようと、していまいと。私に何か特異なことがあるとすれば、私は物心つく前から「演じている」ということに気付き、また意識し続けてきたということだだろう。其れは特異であれ、特別ではない。
例えば。 常、私は実年齢より幾分年上に見られてきた。所謂精神年齢鑑定なるものは私の年齢に関らず――24から28歳あたりを叩き出して来た。色々な意味で早熟だったという自覚はある。否、枯れていると言っても良い。それらは全て私が演じてきた結果であるとも言える。ひとつの理想であり――其れを現実とすること。大和撫子で在れと。淑女で在れと。また同時に――私は凛とした少女でも在らねばならなかった。理想であり、現実。 ならば、男性像としての理想も私は演じることが出来るのだろう。少年と青年は、多分に 鳥 に喩えられた。 鳥みたいだね――囀る小鳥もいれば、猛禽類もいる。 其の言葉は、成程的を射ているのかも知れない。私の、理想。そうして、之ばかりは恐らく現実はなり得ないのだ――私自身がY遺伝子を持たざる者である以上。
何時からか男性不信になって、何時からかは人間不信になった。其れを払拭する事無く私は自分に対して不誠実に生きてきたのかも知れない。
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