記憶。
記憶に関して友人が記していたので、私も少し書こうと思う――。 記憶。何度も此処にはきっと記して来た筈だ、様々な形を取って。今更言うまでもなく、記憶なるものには四つの過程があって、記銘、保存、再生、再認、此の中でひとつでも欠けたるものならば記憶は記憶として機能しなくなる。幸い、私の場合は全てが機能しているわけだ。忘却という行為は本来――脳としては在り得ない行為で、例えば抽斗の中に記憶を仕舞っておく、其の記憶を何処に仕舞ったかわからなく記憶を取り出せない状況が、忘却という概念になる。私の場合は、此の忘却概念も然程多くなく、傍から見れば 記憶力の良い ということになるらしい。私自身としては、他の誰よりも自分が 世間知らず だということを認識しているが故に努めて何でも無造作に取り込むような癖がついてしまっている為か、同年代の友人からは歩く辞書だの生字引だの呼ばれることも少なくないが、これらの呼び名は私から見れば甚だ的外れなものだ。呼ばれて決して嫌ではないが、快・不快で言えばどちらかと言うと不快に相当する。何故なら、先に述べたとおり、私は私自身が如何に世間知らずであるかを知っているからだ。
記憶から少し遠ざかってしまったけれども。 記憶分野は兎も角、――私は其の方面専門ではないし、専門書は山ほど出ているので多くは割愛するけれども、私としては、誤解されているというのが一番辛いところだ。私の世間知らずが――この 世間知らず という言葉さえ、きっと世間一般で言うところの 世間知らず とは少しずれたところに位置しているのだろうと私は考えているわけだけれども、其の私の世間知らずが、私の家庭環境にある、と言い切ってしまえるほどに、原因は判然としている。判然としているが故に、其処から抜け出せないことも認識している。私は、畢竟するに、演ずるより外の道は無いわけだ――そうして、歩く辞書だの生字引だの、そういうものを演ずることが容易いことではないということくらいは理解できる思考能力は持ち合わせているわけで。 ……何、ということは無い。私は鏡に過ぎない。演じることさえ、鏡でしかない。
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