月のシズク
mamico



 子供の強さ

夕方のこの時刻が、ちょうど下校時間に重なることを、私はすっかり忘れていた。
太田さんのところから調整を終えたチェロを引き取って、私はバスに乗っていた。
大泉学園から吉祥寺へ、東京の南北を走る路線バスは、小学校の前で停車する。
ランドセルをしょった子供たちが、わやわやと勢いよく乗り込んできた。

バスの中は子供たちで埋め尽くされ、買い物帰りのおばさんたちは「弱ったな」
という表情を作る。如何せん、子供たちの声は高くてよく響き、ちょろちょろと
頻繁に車内を動き回る。後方の座席に座っていた私も、瞬間的に身構えてた。

退院したばかりの私のチェロは、頑丈なハードケースに入れられていたけれど、
万一子供がぶつかってきたら、その衝撃でまた不具合が出てしまうかもしれない
と不安だった。予想通り、子供が意味もなくうろうろと通路を行ったり来たりする。
私はそのたびにチェロの敏感な部分を手でガードするものだから、彼らのランドセル
がこすれて、白いすり傷をいくつも作ってしまった。そのことに、また苛立つ。

バスの運転手さんも、苛立っていたのかもしれない。
停留所に止まるたびに、客がステップを降りきる前に、ドアを閉めようとする。
客は、あの低いブザーの音で急かされている気になる。お年寄りだっているのに。
もし転んでしまったら、それこそ事故になりかねないというのに。
やさしさ不足の運転手さんに、私は軽い怒りを感じた。

バスが止まり、客は小学生をかきわけて降車口へ急ぐ。
しかし、彼女(かなりの歳のおばあさんだった)がドアへたどり着く前に、
無情にもバスのドアが閉められた。バスにいた客全員がはっとした瞬間、
「まって! 降りるひとがいまーす」と、子供たちが甲高い声で叫ぶ。

運転手さんは、まるで叱られた子供のように、すごすご扉を開く。
おばあさんは子供たちに「ありがとう、ありがとう」と言いながら降りていった。
子供たちは大して気にする様子もなく、再び、彼らの会話へ戻ってゆく。
でも、彼らが反射的に叫んだあの瞬間、私を含めた大人たちは彼らが成した
事の正しさに、敬意すら感じていた。子供の強さ、子供の正しさ、子供の素直さ。

ふたたび動き出したバスの車内は、ほっと、空気がゆるんだような気がした。




でもやっぱり、スクールバスがあってもいいじゃないか。

2002年11月08日(金)
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