月のシズク
mamico



 電車の窓からみた風景

情けないことに、歯が砕けてしまった。
自分で作った海老チリの、カリッと美味しく揚がった尾がいけなかったらしい。
虫歯でもろくなっていた奥歯が、ゴリッと欠けた。まったくホントに情けない。
そしてまた、歯科医通いが始まった。

若先生の腕を見込んで通い始めた歯科医院は、ふたつ先の駅前にある。
今までは電車で数分のそこへ、各駅停車でコトコト揺られて通っていた。

思い直して地図を広げたところ、私は嬉しくなってしまった。
公園を突っ切って、線路沿いの道をゆけば、それほど遠くないことが判明した。
でも私が鼓舞した理由は、キョリの問題ではない。いつも電車の窓から眺めていた
あの風景の中に行けるんだっ、と嬉しくなってしまったのだ。

鉄橋の下の落書きを眺めるでしょ、散歩途中のイヌくんに挨拶するでしょ、
広場の隅で揺れる柳の木を見上げて、さわさわ風に揺れる音を聞くでしょっ。
そのどれもをやり尽くし、ひとり 満足してみる 夕刻の時。

帰り道、電車の中からひそかに焦がれた風景の中に立ち、
今度はそこから走り行く電車を見送る。

蛍光灯に照らし出された人々の中には、やっぱり公園の柳の木を見つめている
眼もあって、私は少しだけ優越感にひたる。さわさわと揺れる、夜の柳の木の下で。
へへっ、いいでしょー、なんて心の中でおどけてみたり する。

でも、一度だけ、その光がうらやましくなった。
街灯のない線路沿いの道を、後ろからゴーッと電車が追い抜いてゆくとき、
私と私の乗った自転車が、わずかな間だけ光の中に入れる。その明るさ。
黄色い光が私たちを映し出し、「がんばれよー」と声をかけ、去ってゆく。

風景の中から出ることも、そこへ入ってゆくことも、
ちょっとした喜びとせつなさがあること 知りました。

2003年03月26日(水)
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