徒然草日記...至都

 

 

続・いじめの構造 - 2002年04月03日(水)

「いじめ」について個人的見解を初めてまとめてみた。
現在の生活状況下でもしばしば此の話題が上ることがあるが
不思議と現在の私が
かつてはいじめの対象であったことを信じる者はいない。
いじめる側である「加害者」ではありえないにしても
いじめられた側の「被害者」になるはずがないというのである。

「被害者」は被害にあったことを忘れない。
というよりは忘れられない。
其の経験を
良い方向にもっていけるか否かは個人差があるだろうが
少なからず私は
自分が辛ければ辛かっただけ我慢したら我慢しただけ
周囲に対して或る意味寛容でありたい。
また出来うるかぎりヒトの個性を認めたい。と思っている。
その態度や在り方ができて初めて
かつて被害者であった自分を認められる。と思う。

一方「加害者」大概其のことを忘れている。
彼らにとっては最初から「無かったこと」だからだろう。
自分のストレスの捌け口として誰かに代償を求めたことなど
およそ正面から認められる行為では無いだろうし
常に或る意味強者たりえたヒトにはヒトの痛みが判りにくい。

今回こんなことを改めて考えたのには訳がある。
先日の新任職員オリエンテーションを受けたヒトの中に
かつて私をいじめた「加害者」が何人か混じっていたのである。
彼らはいみじくもそんな事が微塵も無かったかのように振る舞い
(実際忘却の彼方の出来事なのだろう)
「貴方の講演はとても判りやすかった。立派になったね」
などと、非常に親しげに話しかけてきた。
で、「此れからも宜しくお願いします」と頭を下げた。



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