以前からずっと観たかったフォッシーが監督した映画「キャバレー」をスクリーンでみることができた。1972年のアカデミー賞受賞作品だ。
キャストが最高。特にライザ・ミネリは彼女にしか演じられないであろうサリーを作り出していた。 歌、ダンス、身振り手振り、メイク、衣装。どれをとってもこの役のサリー でしかない有りよう。 本当のベルリンがどうだったのかわからないが、退廃とファシズムの足跡を聞く ここで描かれているベルリンの風俗は危うさを含んだ美しさで、古びることなく 観る者を魅了する。
途中、サリーが、映画関係者の男性に約束を反故にされ、 "He does't care me. I am not worth to care. I am.... I am nothing!" と嘆くシーンがあった。 画中の彼女はとても存在があって、もちろん価値のない女からはほど遠いのだが、 彼女がつぶやくこの言葉は私に重く響いた。
尊敬や愛情を抱く人物から粗雑に扱われると、どうしも傷ついてしまう。 自分の存在価値なんてないんだと思う。 価値や能力がなくても、生きていきたいと思っているというところが、辛いところ なんだろう。
自分の魅力や価値になんて考えたくもないけど、そういうわけにもいかない。 どうしても、社会や人との関わりのなかで人は思い知らされていく。 多くの場合、私は、自分の実力や容姿の美しさや、魅力のなさを思い知るたびに 悲しみ、落ち込んで自信を喪失してきた。 それが辛くて、気づいていても、はっきり認識しないよう誤魔化そうとすることもあった。 そして、だんだん年をとるにつれ、この程度かな。。。と客観的に落ち着いて考え、現状を受け入れられるようになってきたと思う。
いろいろな人と話をするうちに、たいていの人が、自分なんてなんて意味のない存在なんだと、思って眠れない夜を過ごした経験をもっているんだな、と気づいた。 だから、私なんて、自信なんてなくて、価値なんてなくて当たり前。と思ったら楽になった。
価値と意味は違う。私に価値がなくても、私の生は少なからず他人に影響する。 私によって、傷つけられたり、何かを失ったりした人もいる。 どんな人間もその大小に差はあるけれど、社会に影響しているのだ。 私の生は良い悪いにかかわらず、なんらかの意味(作用)を生み出している。
願わくば、価値はなくとも、A Small, Good Thing (ささやかだけれど、役にたつ)でありたいね。
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