2002年11月27日(水) |
Dialogue -対話の重要性 |
久しぶりに泣ける映画を観た。 観た映画は、イラン人のアッバス・キアロスタミ監督の「Ten(10)」。 車の中の、登場人物の会話(セリフ)だけで進行する映画なので、 映画の最初は状況を把握するまで 混乱したり、主人公の女性に対して偏った見方をしたりしたが、 映画が終盤に進んでいくにつれ、彼女や周りの人たちの思いや、感情がどんどん 会話を通して、伝わってきて、胸を揺さぶられた。
映画やTVドラマには状況説明にナレーションが入るものもあるが、 実際の私たちの生コミュニケーションは会話や相手のしぐさや様子がすべて。 そこからしか、私たちは他の人間を理解できないのだ。。。 話す言葉や、声の様子、しぐさがどれだけ多くのことを伝えるか。。。 ほとんど、それがすべてなんだ。。。ということを考えさせられました。
映画や小説のモノローグのような、心の中のつぶやきなんていうものは、実際には意味が無い。言葉はいくら思っていても、口に出して見なければ、相手には伝わらない。
眼は口ほどにものを言う。。って言うけれど、スムーズなコミュニケーションのためにはもっとはっきりと感情や意志を表現しても良いのではないかと思う。。。
こういうことを書くと、感覚が欧米化していると言われそうですが、私は昔からこうでした。ちゃんと、言葉で伝えることをないがしろにしないで、努力したい。そのための、技術を身につけたいとずっと思っている。
最近の疑問は、なぜコミュニケーションは快感を生むのかということ?
コミュニケーションは人間の基本的欲求だと言われればそれまでなのだが。 生き延びるために情報が必要だということを考えれば、コミュニケーション欲や、 情報摂取欲は説明がついてしまうのだけれど、
友達の間の共感や、恋人との手紙のやりとりから得られるような快感はどんな生物学的条件に根ざしているのだろう。。。
なぜ人は愛情を求めるのだろう? なぜそこに快感があるのだろう?
すべては、生殖行動に結びついているのだろうか? すべては、生存活動にかかわっているのだろうか?
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