2002年12月01日(日) |
トリコロール 青の愛 |
ポーランドの監督、クシシュトフ・キェシロフスキの「トリコロール 青の愛」を9年ぶりに見た。 アート系ヨーロッパ映画が好きな人なら、多くの人が話題にしていたし、観た人も多いだろう。
私も観た覚えはあるのだが、ジュリエット・ビノシュが青いモビールに触れるところ、夫と子供を交通事故で失う話、というくらいしか記憶がなかった。 そして、今回見直してみて、まったく初めて観た映画のようにこの映画を味わった。 私は、なぜ私がこうまでも、この映画についてほとんど忘れていたのかいぶかしく思った。私は、印象の強かった映画は細部まで良く覚えている。
たぶん、20歳の私にはこの映画は大きな意味をも持たなかったのだろう。 この映画に描かれていることが理解できなかったのだろう。 それは、言語に置き換えることが不可能な世界。映像と音楽によって初めて成り立つ、描き出されたイメージの連続。
あと、この映画の重要なエピソードで、私の記憶に不思議にもまったく残っていなかった、死んだ夫の愛人が夫の子供を妊娠しているということが、明らかになるところは、今の私には胸にせまった。死に別れてしまうこと、生きているうちに別れてしまうこと、そして、相手の死の後に、相手の裏切りを知ること。どれもつらいが、相手の死後に愛していた夫の愛人とその子供の存在を受け入れることは、夫の子である娘も夫と同時に失った彼女にとっては、とてつもない煩悶を心に起こす。
しかも、その愛人に、「彼は、あなたのことをよく話していました。とても優しくて、だれからも愛される女性だと、私にさえも優しい」と泣かれるのだ。。
私は一体この映画の何を観ていたのだろう。 喪失のあとの孤独と彷徨、そして、そんな中でも人は新たに人生を求めようとする。自分を生かすために、誰かを生かすために。
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