2003年01月30日(木) |
言語とコミュニケーション |
昨日の授業でアイルランドの言語学者であり、作家であり、脚本家であるBrian Frielの著作ととそのコンセプトについて学んだ。
彼の戯曲の中で、言葉の通じないもの男女が恋に落ち、そこにいた第三者が通訳をして恋の仲介をしようとするのだが、彼の通訳能力は著しく低く、コミュニケーションはブロークダウン、しかし、恋する2人は言語にたよらずなんとかコミュニケーションとるというシーンがあった。
これは、翻訳・通訳の限界、言葉に頼りすぎることの危険性、そして、人間のコミュニケーションは言語でないことによって伝わることが大きいという可能性を示唆 しているという。
私のその戯曲のシーンを読んだ印象としては、コミュニケーションにおいて必要なものは、動機と必要性だと思う。恋する2人は、とにかく相手のことが気になって仕方がないし、わずかな情報でも、逃さない、それに好意に基づいているので、相手への評価が非常にポジティウなので、問題があっても、深刻になりにくい。
これは一般的なコミュニケーションにも当てはまることが多いと思う。 仕事の面では、どうしても、正確、詳細なコミュニケーションを必要性に迫られることが多いだろうし、そうして初めて、人は、正確な詳細な情報を伝えようと努力するのだろうし、ましてや、恋愛中においてや。。。相手のことを知ろうとする2人には強い動機があるので、コミュニケーションにかける熱意が違うだろう。
人は言語を作り出したが、いったん、言語を手にした人間はその言語によって、またはその人の置かれた言語環境によって、人間性を形成されてしまうようなところがある。
小説が映画化されるとき起こる問題の中で、特に脚本家が考慮しなくてはいけない問題とはなにか?
というのが私の今書いている論文のタイトルである。ここでは、映画は記号学を多用していて、視覚や音声といった非言語情報が、言語情報(セリフや画中の文字、ナレーション)を補うので、小説どおりのセリフや、ナレショーンはどうしても過剰になってしまう。 そこで、映画のスト−リーや登場人物の感情をうまく表現するには、ある程度セリフや説明をカットすること、その一方で、視覚や、音楽によって、その原作の持つ言葉からイメージされる世界をを創りだすことが求められる。
ここで気付くのは、我々の使っている言葉というものは、想像以上に、個人によって解釈の違うもので、日常のコミュニケーションの中で、言語の果たしている役割というのは、現代の人が信じているほど高くなく、非言語における意識・無意識でのコミュニケーションが人間の生活にとっていかに影響の大きいものかということである。
うーん、日本語で書くと、すごく簡単なことなんだけど、これを英語で、しかも学術用語で書くのは大変です。。。。
エッセイの締め切りは明日の3時。今日は2時から授業で発表。
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