ふうこの英国留学日記-その後

2003年03月22日(土) インターネット・リソースによる客観性の確立


相変わらず、「ニュース翻訳における客観性の分析」というテーマに取り組んでいるのだが、ちっともはかどっていない。
ニュース分析と翻訳理論を結びつけることに難しさを感じている。

ただ、当たり前のようなことなのだが、先進国ではインターネットが当たり前のように人々の生活に入り込んでいる今、人は情報源をマスメディアに頼らなくても様々な情報にアクセスし、戦争や、政治問題、環境問題などに関しての客観的な見方を持つことが容易になった、ということをしみじみと感じる。

ニュースの客観性といったとき、私は政府による検閲や、マスコミと政治や経済の癒着関係をまず思い浮かべたし、メディア学のニュース分析の基本的前提は「偏りのないニュースなどない」という一文に凝縮される。

しかし、哲学的にいえば、個人が何かについて判断したり、意見を持ったりするとき、それはすべて主観なのであり、人の判断や思考回路は客観的になろうとすることは可能だが、まったくの純粋な客観ということ自体がありえないのだ。

そこで問題は、コミュニケーションの過程よって、どのようにして、人は客観的な視点を確立していくことができるか、そして、どうそれを表現するのか?または、逆に事実と言われる証拠のある状況が、その表現の過程において、どのようにねじ曲げられ、客観性を失っていくのか?ということになる。

客観性を持つために一番有効なことは、その事象に対して、様々視点があるということを知ることだ。自分の見方と違う視点を知ることで、対象を立体的にみることができる。円錐が上からみれば、円形だが、横から見れば三角形に見えるように、物事を立体的にとらえることができれば、違った見方が自然と見えてくる。
そして、様々な人の視点に触れることができるという点で、インターネットは個人が世界を客観的にみることを、今までにはなかったどんなメディアより可能にしたと思う。

面白いのは、インターネットが、膨大な個人的な情報、つまり極めて多くの主観を提供していることだ。社会的公平と客観性を売りにしていたはずのマスコミが、主観的に物事語ることをゆるされていないように見えながら、実際にはコントロールされた情報と共に、極めて主観的な視点しか提供していないということは衆知のものであり、逆に基本的に極めて主観的で、公平さを売りにしていないネット上の個別の情報の方が、よっぽど客観的に物事をみる視点を与えてくれる。客観性を演じながらも主観的なマスコミと、複数の主観から客観を確立することを可能にするネット、そこには主観に徹することでしか、客観に到達する道はないというパラドックスが見える。

客観的視点を持ちたいと思ったら、まず自分の視点を定めること。インターネットの上の膨大な上は、私にそのことを教えてくれた。

インターネットがなかった時代、人々がアクセスできる情報は今よりもずっと限られたものだったので、マスメディアで報道されるニュースの客観性を疑うことに意義をみつけることは簡単だったろう。
だが、インターネットというメディアを得て、相対的に、情報が増えて大新聞やTV局といったマスメディアへの依存度が下がりつつある今、メディアを研究することは、またさらに違った人間の活動形態を暴くものでないと面白くないような気がする。


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