いよいよ引越しが決まり、昨日荷物を3分の1ぐらい運んだ。数人の友達が手伝いに来てくれ、荷物を運ぶ前にツナとオリーブとトマトのパスタを作って振舞った。我ながら、今日は美味しく出来たと思ったパスタを、アルベルトは「このパスタはすっごーく、すごーく、crap(クソ、クズ)だよ!」と言って喜んで食べていた。彼はこういうオーバーな表現を良くするので、(おなかがへって死にそうだとか、今日の荷物は三トンだとか、)私は、しょっちゅう真に受けて疲れていたが、最近慣れてきた。彼曰く、こういう大げさな冗談や下品な表現はイタリアの言語文化だという。そうそう、先日アルベルトが美味しいんだよ!といって持ってきてくれたホワイトワインが本当にフルーティーでありながら、軽くもなく、重くもなく、しっかりと香りと芯の通ったような味があり、とても気に入ったので、銘柄をここに紹介。高いものではないので、ぜひ見つけたらトライしてみてください。 その銘柄とは、Verdicchio dei Castelli Di Jesi (ヴェルディッキオ・デイ・カステッリ・ディ・イエージ)、ヴェルディッキオ種の故郷として古くから知られるカステッリ・ディ・イエージ地域のワインということ。年によって差はあると思われるが、基本的に喉越しが柔らかく、口の中にフワ-と芳醇な香りが広がるのが特徴で、万人受けすると思う。
ところで、私はアルベルトが人間としては好きだし、周りの人には付き合ってるの?と誤解されるぐらい仲はいいのだが、私と彼の間に恋愛感情はない。彼を好きになれたら、毎日が楽しいかもなと思う。しかし、幸か不幸か、私と彼は恋には落ちていない。恋は抗えないものだが、友情は理性の範囲で深めていくことができ、比較的予測可能である。友達であるほうが意味もなく傷つくこともなく、関係は心地よく、対等で安定している。
人はどうして恋に落ちてしまうのだろう。狂おしいほど誰かを求めてしまうことはそれ自体がすでにもう絶望的だ。恋は暴力的だ。突然やってきて、人の心を掴んでしまう。私は今はもう、新しい恋に落ちるのが怖い。しかし、怖いもの見たさとはよく言ったもので、またいつか誰かと恋に落ちたらどうしようと。。。ハラハラしていることをどこかで楽しんでいることもある。
今日読んでいた翻訳に関する論文の中に、翻訳者がしてはいけない考え方として、原作者はこう言いたいのだと自分で決め付けて解釈してしまうことだと書いてあった。 翻訳とはコミュニケーションの一つの過程であり、そこではまず最初に原文を正しく理解することが何よりも重要である。そして、その解釈において、原文の意味を自分の考えの範囲で安易に限定してしまうことは、間違った解釈につながる可能性が高いので避けなければならない。翻訳者はいつも多様な解釈の可能性を感じながらも、一つ一つ不確実性の中で翻訳文にふさわしい表現を選んでいくしかない。 正しい翻訳というものは存在しない。翻訳という作業は、これでいいのだろうか?という不確実性といつもともにあり、翻訳者は自分のしている作業の不確実性と実際に限定された表現を選ばざるをえないというジレンマの間にいる。何が正しいのか、自分の決断や行動が本当に正しいかなんてわからない。それは、私たちが人生の不確実性の中でも、何かを選んだり、諦めたりしなくてはいけないことと似ている気がする。
この翻訳に関する考え方は、人間関係にも当てはまると思った。人は他人の行動や言動を自分の価値基準のなかでしか判断できない。だから、そこでは、自分の価値基準が限定されたものであり、物事をそこに照らし合わせて測ることは、単に自分個人の見解に過ぎず、普遍的に正しい見解ではないということを認識することが必要だ。 特定のものに対して、一般的に、普通に、と判断をすることは極めて危険で、何かに対して不快な思いをしたとき、私はこういうことは嫌いだが、、、他の人はそうでない可能性もある。。ということをいつも頭に置いておくといろいろなことが理解できるようになると思う。
まあ、そんなこと言っても、頭に来ることもあるし、呆れてしまうようなこともあり、愚痴もこぼしたくなる。そんなときは美味しいパスタでもおなか一杯食べて眠りましょう。
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