ふうこの英国留学日記-その後

2003年11月13日(木) 自分の知らない自分


朝日新聞夕刊の西垣通の言葉にはっとさせられた。

「体内には神経処理だけでなく、代謝処理もふくめ膨大な情報が渦巻いているが、そのなかで意識される部分はごく僅かなのだ。」

この説明自体は目新しいことではないが、自分がわからないということをに対して最近苛立つを感じていた私は、これに深く頷いてしまった。現代に生きる個人は物事を自意識の範囲で処理できる情報によって論理的に判断しようとする。しかし、それがなかなかうまくいかない。
自分が、なぜあるものを嫌悪し、あるものを好むのか理解できない。人間の生理というが、生理的に、直感的に感じことというのは、意識下の情報処理の結果なのだと思う。自分ではなぜそうなるのか説明しずらい、しかしそうなのだとわかってしまう。
論理的に正しいということはそんなにすばらしいことなのだろうか?
仕事でも、コミュニケーションにおいても、論理的に正しいということは現代社会において説得力を持つということで高く評価されているように思う。
直感で感じることをきちんと言語化する、映像化する能力もまた高く評価される。
しかし、その膨大な意識下の演算の過程を他人に伝えることはまず無理だろう。理由は自意識によって辻褄が合うように作られたもののような気がする。そこには心理学的に、「そう思っていたい」「そうであった欲しい」という無意識の思いが影響を与えていることだろう。
要するに、私は自分がわからない、自分の体をコントロールできないと悩んできたが、自意識の範囲というものはその個体が処理している情報のごく一部に過ぎないのだから、その部分であるところが、全体を理解できないというのは当たり前のことなのだと思った。
私は自意識を過信していた。なぜ、自分のことなのにわからないのか?と苛立っていた。自分が意識できている範囲は生命体としての自分の活動のごく一部なのだから、自意識ですべてコントロールしようとすること自体が傲慢な態度なのだと思う。
自分で自分を把握しきれないことは致し方の無いこと。。。しかし、考えれば考えるほど、近代自我の確立というのは生命体としての肉体を軽視する傾向にあるのだなあと思う。現代に生きる私たちは、意識上の自分と、意識下にある自分とのジレンマに悩まされている気がする。本当はこの二つは対立するものではないのだから、それを一体としてうまく機能することができたら、個体の情報処理能力は飛躍するように思う。


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