2004年02月26日(木) |
すべての不幸は異なり、すべての幸福は似通っている |
幸福な家庭はすべて似通っているが、不幸な家庭のその不幸のあり方はそれぞれ異なっている。byトルストイ
今日、ふと開いたアンナ・カレーニナの出だしである。私はこの有名な一文がトルストイのこの小説の一節であることを今日まで知らなかった。以前にこの文をどこかで読んだとき、なるほどうまく言ったものだと思ったが、アンナ・カレーニナの冒頭文だったとは。やはり名作はそう呼ばれるだけの普遍性を持っているなあ。
この文章は家庭という主語が入っているが、私は家庭にとどまらず幸福という状態はどこかしらに通っていて、不幸と言うのはいつも極めて個性的なものであると思う。
それは当たり前のことだ。なぜなら、人は社会の価値観から独立して生きているわけではないから、ひどく貧乏で病気を持っていて、孤独な人間が自分でいくら幸福だと感じても、多くの人がその状態を見て「不幸だ」といえば、そこから完全に自由になることは難しく、自分自身もその社会的基準の中で自分の状況を判断し、「私は幸せなんだ」とか「不幸なのかな」と思ってしまうであろうから。
しかし、大体において、他人の幸せな話が退屈で、不幸な話が面白いのは不幸話のほうがバラエティーに富んでいるというのは事実だと思う。 たとえば、最近彼氏とどう?と聞かれて、不満や喧嘩の種があったなら、それを面白おかしく話すこともできるが、完全に満たされていて、なんの問題もなければ、「うん、うまくいってるよ」で終わってしまう。 ノロケを延々と聞かされて喜ぶ人も少ないだろう。
だから「だめんず」の話は面白いのだろう。
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