| 104 読書歴 |
今、俺にとっての大きな喜びのひとつは「読書」だ。そこで「読書歴」について語ろう。 読書歴は小さいころから始まっていた。多くの人がそうであるかもしれないけど、うちは小さいころから親に読書を薦められた。そうすることは今の俺にはとてもよくわかることで、もし俺に子供ができたら、やはり読書は薦めると思う。でもやっぱり小さい子供にとって、読書は苦痛になってしまうことも多い。それが普通だったときはよかったんだ。でも、世の中には他にもたくさん楽しいことがあって、漫画を読みたかったり、ゲームがしたかったり、そのとき友達が遊んでいるものがほしくなる。そんなときに読書をすすめられてしまうと、それまでは普通に好きだった読書も嫌いになってしまう。誕生日プレゼントが本だったときはショックだったくらいだ。 それでも小学生のころ進んで読む本があった。歴史の本だ。歴史はずっと好きで、その本は小学生向けくらいの大きな字で書かれた、やさしいもので、歴史上の人物一人にスポットをあてて書かれたものだった。定期的に新しい本が出され、たぶん70巻くらいまであった本のほとんどすべてを読んだ。 中学生になると猛烈に本を読んだ。学校の図書館で本を借りるには、「読書カード」があって、それをいっぱいにするのがうれしかった。そのころの俺の興味は、伝記や童話などになっていた。三銃士がすごく好きで、いろいろな三銃士を読んだし、意味もわからずシェイクスピアを読んだりもした。中学のころに読んだ本の量は結構なものだった。 高校にあがると、読書の熱はすっかり冷めてしまっていた。たまにものすごく読みたい本なんかを見つけると、授業中にひたすら読み続けるということはあったけど、それ以外ではほぼ読書は皆無だった。 大学に進み、本を読まなきゃまずい!という意識が芽生え、本屋で名前が聞いたことがあるという安易な理由のみで、村上春樹の「1973年のピンボール」を読んだことで、今の俺の読書熱は復活した。 余談だけど、どの時代をとってみても、それこそ読書にのめりこんだ中学生時代でさえ、なぜか読書感想文となるとだめだった。課題図書に指定される本に、魅力が感じられなかったんだ。今となっては当時に課題図書に指定されていた本はとても興味深く、楽しく読むことができるんだけど、そのころの俺にとって日本文学やらはどうでもよかった。でもそれは、その年頃にあった本を選ぶべきだ。どんなにすばらしい内容の本であったとしても、興味を示すことができなければ意味がない。無理して難しい本を読んだって、自分にとってはなんの意味もない。それは今でも変わらずいえることだ。
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2003年10月01日(水)
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