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148 純文学とカジュアル文学の違い

これまで「Book」のコーナーでいろいろと紹介してきた村上春樹の作品を含む純文学に対して、全般的な意見をVoiceで話してみようと思う。これはあくまでも素人的に、ただ好きで読んでいるだけの一読者としての意見だから、より専門的な目で見る人とは視点が違うし、もしかしたら「お前の言ってることは違う!」といわれてしまうかもしれないけど、そう、あくまでも俺個人が感じた意見として、ね。
村上春樹は純文学作家とされていると思う。世間でどう思われているとか、どういうジャンル分けをされているとか、そういったことにそこまで詳しく知ってるわけじゃないからなんとも言えなくもあるんだけど、たぶんそうだと思う。そして俺もそう感じる。同じ日本語を使って文章を書いているのに、そこに純文学と、そうでない文学(文学というのかわからないけど)の差をどこで見分けるのかは最初はわからなかった。
例えば、同じ村上姓で有名な村上龍の作品は、純文学とは言わない。石田衣良も、辻仁成も、田口ランディも違う。これらはなんて言うんだろう・・・。大衆小説とか、中間小説とか言った言い方があるけど、一番しっくりくる言い方は「カジュアル文学」という表現。これをどこで見たのか覚えてないけど、(しかも正式な名称なのかも疑わしい)なんか一番納得できた。
純文学に共通して言えるのは、抽象的な表現を真剣に受け取り、そこに含まれる深い意味合いを少しでも知る喜びがある、ということ。中学生のころの読書の時代を除けば、ここ数年の読書熱の発端は村上春樹にあるんだけど、その始まりの喜びの一つの大きな理由はそれだった。実に抽象的な名言が多いと思う。
カジュアル文学が、ストーリー全体を通して喜びなどの伝えたいことを伝えるなら、純文学は、一場面ごとにそれが集約されている重みがあると思う。こういうと純文学のほうが勝っているかのように聞こえてしまうかも知れないけど、そういう意味ではなく。読みやすさという点で言えば、カジュアル文学のほうが明らかに読みやすく、面白いものも多い。それに引き換え、純文学は読みにくく、読み終えて「おもしろかった!」と言い切れるものでもないものが多かったりする。読み通すのにテンションが保たれないことも多く、難解な点につまづくことも多い。でも、そのぶん後に残るものも多いと思う。ずっと後を引くし、場面が心に残る。
また、カジュアル文学における会話ってものは、ストーリーが進む上での「過程」として映る場面が多く、あとは登場人物のキャラクター設定の要素としての役割がある。それに比べると、純文学における会話のシーンは、会話そのものに面白みがある。過程としての役割はもちろん担いつつも、それでいて会話のセンスを見せるという点で、その会話のシーン自体がそれ単体として完結しているようにも思える。村上春樹の作品を読んでいて、一番好きなのは、この会話のシーンだ。
どちらが好きかと言えば、俺は純文学の方が好きではあるけど、純文学ばかりを読み続けると疲れてしまう。そしてカジュアル文学も好きではあるから、どっちも読む。なんかほんと素人目の考えだったし、いまいちまとまりがないけど、まぁそんな感じだと思うんですわ。
2004年02月10日(火)

VOICE / マッキー

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