蜜白玉のひとりごと
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連休後半は読書に夢中で、このごろは須賀敦子さんの作品を読んでいる。須賀さんの文章は美しい、と評した人がいたけれど、確かにそれはそのとおりで、手のひらでそっと水をすくうように穏やかで丁寧な文章は、読んでいてとても心地よい。静かな空気に包まれて、自分の心の深い部分に入っていくような気がする。地下室への階段をゆっくり降りて行くかのようだ。地下室には何があるのか、暗くてよく見えない。
『ユルスナールの靴』を読み進むにつれて、自分の知識のなさに愕然とした。歴史、宗教、文学、その他この作品を理解するために必要なあらゆるものが、私に欠けていることに気がついた。かと言って、応急処置的な勉強をするわけでもなく、なんとなく流れに乗って最後まで読んでしまった。須賀さんが作家ユルスナールに惹かれ、「彼女のあとについて歩くような文章を書いてみたい」と思い、書ききった文章を読んでみたい。ただそれだけだった。今は、読んだことがある、という経験だけでもいい。適当な時間が過ぎて、再び読むその時には、この作品を自分に染み込ませることができればと思う。
夕方には思いきって、図書館で須賀敦子全集の1巻、2巻、5巻、別巻を借りてきた。4冊はさすがに重かったけれど、机に積んだ本を眺めていると、ここから世界が広がっていく予感がして、なんとなくうれしくなる。順番に借りた方がよかっただろうか。今すぐにでも読みたいものから借りたので、こんなにも順番がばらばらになってしまった。5巻には、須賀さんが訳したウンベルト・サバの詩が載っている。ウンベルト・サバの詩は、あの江國さんも「江國香織ヴァラエティ」の中で取り上げていて、特におすすめの1冊ということになっている。楽しみだ。
そして、全集を読み終わった頃には、『ユルスナールの靴』を案内役に、ユルスナールの作品も読んでみるつもりだ。興味がどこからかふつふつと湧いてくるこの時にしか、読めないような気がする。ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』は、ある人に言わせると、「20世紀の最高の文学」であって、「人生を折り返したあたりで読むとちょうどいい」らしい。そして、「何も若いうちからこんなもの読まなくても、もっとほかに楽しいことがあるでしょう」とも言っていた。そうかもしれないけれど、好きなものは最初に食べてしまう性質なので、あしからず。
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