蜜白玉のひとりごと
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読売新聞サイトyorimoに掲載中の川上未映子エッセイは毎週月曜日更新で、会員登録(無料)をすると最新回だけ読める。次のが載ったら古いのは読めなくなるので気に入ったら一週間のうちに何回か反芻する。忘れたくないので、以下2010.8.16「発光地帯 第76回 真夜中の子ども」より引用。
「ミエコは仕事の人に山へ連れてゆかれてしまうので、東京にいません。だから、東京に来ても、ミエコはいませんので、すみません」と甥っこたちに伝えてくれと彼らの母、つまりわたしの姉に言いづけた。そして数日、気分を害しただろうかな、約束を反故にして子どもだと思って無理矢理に融通がきくと思って舐められたもんやで、などとキレていなければいいのだけれどと電話したら彼らはまだまるっこい子どもであって少し淋しそうに「わかった」とだけ言ったそう。(中略)この秋に5歳になる下の甥っこが「っていうか、ミエコは山で何すんのん」ときいてきたそう。 「あたらしい本が書かれへんから、お山で書くんやって」と姉。「そんなん、まえの真似したらいいやん」とまっとうというかなるほどというか、そんなような応答があり、そういう甥っこの顔はなんだかちょっぴり悪い顔をしていたそう。 というわけで子どもはなまら可愛いもので、わたしは子どもが大好きである。子どもといれば子どもになれるし、あの目とあの体験にかさなってもう一度生きなおすことができたらこれはかなり素晴らしいことに違いない、とは思うのだけれど、それが自分の子どもである必要がそんなにないのと、やっぱりわたしはもう大人だし、自分が生きているのはこれでしかないし、そしてときどき立ちあがるこの勇気にも似た世界へむかってのポジティヴ感はどういうわけかいつも長くつづいてはくれないせいで、いつまでも、明るい音のしない真夜中に爪をぱちんぱちんと切っては捨ててを繰りかえして、目に見える物の数をとりあえずは数えているのだそう。(引用終わり)
「勇気にも似た世界へむかってのポジティヴ感」というのはもともと長続きしないものとしてあるのか。私にもときどきたちあがってくるこの感じはやっぱり長続きしないし、とてもいいひらめきのように思えたものが何日かすると色あせて見えることもしばしば。可愛い甥っこたちの話からそこへ連れて行かれるとは思いもせず、そういえば私も昨日の夜、爪を切った。
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