蜜白玉のひとりごと
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おかしいな、売っちゃったんだっけ。いや、さすがにあれは売らないよな、誰かに貸したんだったかな、でも誰だっけ、覚えてないや。そもそもいつからここにないんだろう。もしかしたら最初から持ってなかったなんてこと、あるかな。あるかもな、もう10年近くも前のことだもん、がっかりするくらい覚えてないな。
私にとって4回目くらいの須賀敦子ブームのさなか、須賀敦子追悼特集の文芸誌の別冊と、大竹昭子さんの『須賀敦子のミラノ』が本棚に見当たらないのである。
『須賀敦子のローマ』も『須賀敦子のヴェネツィア』もあるのに、ましてや岡本太郎さんの『トリエステ』と『アッシジ』まであるのに、『ミラノ』がないなんておかしい。きっと誰かに貸したままになっているんだ、とはじめは思ったけれど、待てよ、『ミラノ』だけはもしかしたら私が誰かから借りて読んだのかもしれない、とヒヤッとした気持ちになった。貸してもらった『ミラノ』を読んで気に入ったから、『ローマ』『ヴェネツィア』と続けて自分で買ったのだったか。記憶がまるで抜け落ちている。本当にそれこそ忘却の彼方だ。
それでも、須賀敦子を読むようになったきっかけだけは覚えている。須賀さんの作品を最初に薦めてくれたのは大学の精神医学の先生だった。手始めにそのとき話題に上った『コルシア書店の仲間たち』を読んで、イタリア人の印象ががらりと変わった。それまでの彼らの印象は底抜けに明るく軽く、おしゃべり大好きでナンパもするし、人生の悩みなんて皆無さ!ってな風だと勝手に思い込んでいたのだけれど、須賀さんの語るイタリア人は静かで思慮深く、ときに暗く不器用でもあり、譲れない緻密さも持ち合わせていた。回想形式のエッセイのはずが、いつの間にか小説を読んでいるような錯覚にとらわれるくらい、本の中は美しい文章と完成した世界観に満ちていた。
なぜこんなに須賀さんにのめり込むのか、何度目かのブームがやってきてもいまだにその理由はよくわからない。10年ほど前、イタリア人の印象の違いに驚いたことにはじまり、その1年後くらい、友人とふたりで読もうということになったときにはその文章と言葉の選び方に惹かれた。それからしばらく時間があいて、数年前には父の介護に疲れて助けを求めるような気持ちで読んだ。今回は北イタリアの都市に興味を持って、しばらくぶりに取り出したところだ。毎回違う視点で近づいていくことができる。
ただ、須賀さんの文章を読もうとするときはいつも、呼吸を整えて耳をすませるような姿勢になる。それが本と対峙するときの私の理想の形であり、それは私にひととき平らかな心をもたらすような気がする。文章に寄り添うことで、穏やかな時間を取り戻すことができる。
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