蜜白玉のひとりごと
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朝から雨降りで真冬のように肌寒く、こんな天気の日はとても外へ出かける気になれない。急ぐ用事もないから、一日中、家で本を読むことにした。相方は早々と出かけてしまったので、部屋はしんと静まり返っている。時折、洗濯機の終了の合図に呼ばれるほかは、床にゴロゴロ寝そべってひたすら文章を追う。雨で薄暗いせいか暖房をつけていてもどこかしら寒く、本を持つ指先がつめたい。それでも本から目が離せない。
一昨日から読み始めた湯川豊さんの『須賀敦子を読む』になにしろ熱中しているのだ。文庫になったのを見つけてやっと買ったけれど、もっと早くに読めばよかったと今さらながら思う。担当編集者だけでなく友人でもあった湯川さんが、もう一度ていねいに須賀さんの作品を読み直して語っている。単に故人を懐かしんで書いた思い出話ではなく、残された作品に真正面から向き合って、読み解こうとしているのがわかる。だから湯川さんの個人的なエピソードは抑えられ、ほとんど出てこない。推察も、あくまで文章や作品群からの推察であり、友人としての憶測に甘えていない。湯川さんはこの著書で読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞されたそうだ。
『須賀敦子を読む』は、次のような構成になっている。
第一章 もう一度、コルシア書店を生きる ――『コルシア書店の仲間たち』 第二章 霧の向うの「失われた時」 ――『ミラノ 霧の風景』 第三章 父と娘のヨーロッパ ――『ヴェネツィアの宿』 第四章 精神の遍歴 ――『ユルスナールの靴』 第五章 家族の肖像 ――『トリエステの坂道』 第六章 信仰と文学のあいだ ――「アルザスの曲りくねった道」
須賀さんの生前に出版された作品を中心に話が進む。第一章、第二章と読むにつれ、自分が何年かおきに須賀さんの作品を読むたび、なぜこんなに寄り添われる気がするのか、なんとなくだけれど、その理由が見え隠れするような感覚がある。私の人生に父の死が加わってから、その気持ちがますます強まったのもきっと関係がある。
記憶のおぼろげな『ヴェネツィアの宿』と『ユルスナールの靴』は飛ばして、第五章を読む。『トリエステの坂道』はわりと最近再読したので覚えている。最後、第六章の「アルザス」についても少し読んで保留した。湯川さんに読み解かれてしまう前に、もう一度自分で読み直さなければもったいない。私をとらえる文章はどれなのか、立ち止まる言葉は何なのか。
窓を開けると、濡れたアスファルトが寒々しい。雨はやむ気配もなく、正午前でも気温は朝とあまり変わらない。天気予報では最高気温11度と言っていたけれど、この分だとまた予報はハズレだ。すっかり冷めてしまった紅茶を飲みほして、今度は『ヴェネツィアの宿』を頭から読む。今日中に一気に読み切ろう。そして湯川さんの話に戻ろう。本当に、いつになく熱中している。
『ヴェネツィアの宿』には以下のエッセイが収められている。
ヴェネツィアの宿 夏の終わり 寄宿学校 カラが咲く庭 夜半のうた声 大聖堂まで レーニ街の家 白い方丈 カティアが歩いた道 旅のむこう アスフォデロの野をわたって オリエント・エクスプレス
そうだったか、ヴェネツィアの話は最初の一編だけで、あとは主に日本での話だ。両親のこと、親戚のこと、戦前、戦中、戦後、自分や家族がどこでどうやって暮らしたか。時間軸は行ったり来たりするものの、人との関係は時間通りに整然と並んで思い出されるものでもない。
・・・なんだっけ。読んでいるときは書きたいことがあったはずなのに、もう忘れてしまった。読みながら同じスピードで文章に線を引いてしまいたいくらいだけれど、いくら自分の本でもやっぱりそれはできない。百歩ゆずって付箋か。付箋も読むのがいったん止まるからやらないだろうなあ。
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