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2007年04月16日(月) 寂れた神社に思う

艦長日誌 西暦2007年4月16日

 昨日は山国町〜耶馬溪町の古社に参拝し良いものを見れた。田舎の神社は都会の神社に比べ、結構大きな規模で境内や鎮守の森が残っているから、参拝していてとても清々しい。そして意外に立派な社殿や参道、石灯籠などがあって驚くことも多い。また神社の数もかなり多かった。ひとつの集落に必ずひとつ、もしくはそれ以上の社が必ずある。昔は都市部でも沢山あったんだろうが今は開発でなくなったり社地を切り取られたところが多い。鳥居と社殿を分断されている神社も良く目にする。

 神社を訪れて思うのは、境内はよく清掃され榊も供えられて地元の人に大事にされている一方、参道や社殿は古くなって崩れたり傾いたりと寂れている印象が否めない。田舎や都市部の規模の小さい神社でも、明治や江戸時代に建てられたまたは建て替えられた社殿は殆どが高い技術と手間暇を掛けて作ったであろう事が見て取れる立派なものが多い。これらの建物が、現在では年月を重ねてかなり老朽化してきている。シロアリに食われてボロボロになっていたり、傾いていたり。雨風を避けるため社殿を覆うように屋根を付けて守っているところも多々。これだけの素晴らしい建物なのに、もったいないと思ってしまうことが多いのだ。



 これはやはり昔のような信仰心が薄れてしまったことに寄ることが大きいのだろうか。神主が不在の神社も多い。都市部では信仰心の低下、田舎では過疎と、理由は違えど氏子が減少している現実も。地域のお祭りも、昔は神社やお寺を中心にして行われていたものが、今は存在感が小さくなっている。

 神社の境内で目にする鳥居、石碑、石灯籠などには、寄進した人とその年代が刻まれているし、社殿の建て替えに寄進した人の名前なども残されている。昔の人は競って神社やお寺に寄進し、神や仏の加護を得ようとしていた様子がうかがえる。もちろん現在でも新しく寄進されたものを目にすることはあるが、どれも規模が小さい。思うに昔は藩主や土地の名士、富豪などが信仰の証として進んで寄進をしていた様なのだが、現在ではそういうものが少ないようにも感じる。人の多く集まる大きな神社なら一般に寄付を募って独自に維持、改修をしていけるが、そうでないところは寂れる一方。どうにかならんのかなぁ。神社庁は何か対策ないんかな?

 豊かになり自然の驚異や厳しい生活から遠ざかっている日本社会では(もちろんそれらに晒されてる人たちも大勢いるが)、信仰は年を追う毎に希薄になり、その一方で怪しげな新興宗教が人々をだまし金を巻き上げる。道徳の欠如、治安の悪化、日本はどこへ向かうのか。

 別に宗教的なことを奨めるつもりはないが、人々の生活に根ざし、自然を敬い、土地と人々の安泰を祈ってきた神社は日本の誇るべき文化だと思う。もちろんお寺や石仏、道ばたにあるお地蔵さんや道祖神なども同じだ。ナショナリズム的なものではなく、地域に親しまれ、歴史を刻んできたものを、我々はもっと大事にしなきゃいけないんじゃないかと感じる。


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