沢の螢

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善意の行方
2002年03月24日(日)

春の嵐のように、この一週間のあいだに駈け抜けた風が、どうやら沈潜したかに見える。
集団の中で、何かをやろうとする時、たとえそれが、善意から出たことであっても、やり方如何で、まずい結果になることがある。ことに、人を巻き込んでの事柄は、自分のみならず、相手にも、周囲にも、幾ばくかの傷を残してしまうこともある。
「あれよあれよ」の結末は、もし、うまくいけば、実行した人たちの手柄話になるはずだった。ヒントとなる話をした私は、既に、そこからはずれていて、「一般大衆」のひとりとして、単なる事務的な手伝いだけを、頼まれていたが、私にも「五分の魂」はあるので、その計画には参加せず、手伝いにも加わらないつもりで、心を決めていた。
ところが、その計画は、実行段階に入って、別口から横やりが入り、頓挫したのである。それを知ったのは、一昨日の夜遅く、実行者からのメールだった。
強硬な反対意見があり、大がかりな形では実現不可能になったが、縮小したやり方で、まだやるつもりであることが書いてあった。しかし、自分が、早まって起こしたスタンドプレイについての、反省というか、認識はないように見えた。善意で始めたことが、ほかの力でつぶされることに、むしろ不満を持っているようだった。
「なんだか一本大事なことが欠けてるわねえ」というのが、5人のうちの私と、もう一人の人の感想である。残りの一人とは、この件では話してないので、どう思っているかわからないが、争いを好まない人だから、当たらずさわらずで、やり過ごしたかもしれない。
今回つぶしにかかったのは、組織の中での、バランス感覚と、ピラミッド型の人間関係を重視する男性群だった。しかし、公平に見て、彼らの収拾の仕方は、一つ上を行っていたと思う。
相手の状況や、周囲の人たちへの配慮を無視して、善意という旗印で(善意だけとしても)動いた人たちの、やや深みに欠けた実行の仕方が、そのままうまくいくとは思えない。
うまくいかなかった場合の逃げ道として、私が悪者にされる可能性もあったが、さすがに、そこまでには至らなかったらしい。「らしい」というのは、私の耳に直接はいらずに、言われているかもしれないからである。こんな話を、えさにして愉しむ人は、いくらでもいる。
張り切って、実行に取りかかった2人は、気の毒な結果となった。彼女たちは、大事なものを少なからず失ったことになる。いずれ、記憶から消え去ることではあろうが、あまりにも多くの人を巻き込んでしまったために、信頼感を損なってしまったであろうことは、否めない。
5人だけの、ささやかな話にとどめておけば、後味の悪いことにはならずにすんだであろうに。そして私も、これからは、人を見てものを言うべきだろう。

2002年03月24日 19時53分12秒



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