沢の螢

akiko【MAIL

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ネット語、ネット人格
2002年04月23日(火)

インターネットは、主にボードを通じて、いろいろな人と交流を愉しむところである。
名前や顔を知っている場合もあるが、多くは、どこの誰ともわからずに、会話をするのである。それはとても面白い反面、一歩間違えると、とんでもない危険もふくんでいる。
ほんの些細な言葉のつかいかた、言い回しが、読む人の受け取り方で、全く違う意味に取られたり、誤解を生んだりする。
知らない人だからいいだろうというのは、間違いで、知らない人だから、知っている相手以上に、神経を使わねばならないことが多い。
それがわかってきたのは、パソコンを始めてしばらくしてからである。
まだメールの段階だったが、便利で手軽だと思っていたメールが、実は、手紙や電話、実際の会話よりも、難しいものだと言うことを感じるようになったのだった。
拝啓も敬具もなしのEメール機械のごとき言葉並べて
これはそのころ作った下手な歌だが、私の実感であった。メール交信を始めた人と、よくケンカをしたからである。顔見知りではあったが、さほど話したことのない人と、メールで手軽に意思疎通が出来るようになって、とても嬉しかったのだが、簡潔に用件だけ書くのがメールであるらしいのに、私が、手紙と同じ性格を、メールにも期待したからであった。
「深読みのしすぎ」と、よく言われるくらい、省略の多いメールは、私には、時として不消化なものだったからである。
ちょっとした言葉の使い方に、過剰反応してしまい、相手に不快感を与えたこともあったと思う。
だんだん、メールというものがわかってくると、それなりの使い方にも慣れ、メールの利点を理解して使えるようになり、やはりずいぶん便利なものだと感じるほうが、最近は多い。
しかし、個人的なメールに比べて、世界に向かって開かれているインターネットは、もっと、いろいろな要素を持っている。
どこで誰が見ているかわからないインターネットの世界、たとえ、大々的に公開していなくても、その気になれば、忍び込めるらしい。だから、インターネットを愉しむには、多少のリスクも、背負うのだと言うことを、理解した方がいいかもしれない。
ホームページを持ち、ボードの運営もするようになって、そんなことをあらためて感じている。現実の自分とは違う人格が、ネットの中には生きているのだと言うことを、肝に銘じるべきだろう。

2002年04月23日 00時33分42秒



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