![]() |
![]() |
先日、新国立劇場で、オペラ「トスカ」を見た。 この中で歌われる「星も光りぬ」や、表題の、visi d’arteは、独立した歌としても、演奏会で歌われる有名なアリアである。 今回はイタリアのノルマ・ファンティーニがトスカを演じた。とらわれの身になった恋人を思って歌う歌。 近松などの世話物も、恋に殉じた男女の道行きが出てくるが、タブーの多い時代でこそ、恋に命を懸ける喜びがあったわけで、今のように、何にも枷がなくなってしまうと、真剣な恋はしにくいのではないだろうか。 もちろん、親の反対で結婚できないという例も、皆無ではないようだが、原則的に、結婚は年齢を満たしていれば本人の自由、親の反対ぐらいで成り立たないものは、はじめから大したものではあるまい。 また恋と結婚はイコールではないから、人はいつでも誰とでも恋をする。それが現実にどういう形をとるかは、別の問題。 若い頃、私は恋愛至上主義者だった。まだ、それほど自由な時代ではなかったから、命を懸ける恋というのも、ありそうな気がした。 身近に駆け落ち結婚した人もいるし、恋のために、自分の人生を変えた人もいる。 何かを得ることは、それ以上に何かを失うこと。そうした覚悟のない恋は、たぶん恋の名に値しないのだろう。恋に名を借りた戯れ言か遊び。 でも、人生の終わりが近づいてくると、命までは懸けられないが、傷つかない程度に恋の香りを楽しむ器用な人がいても、不思議ではないかもしれない。 時々、そんな例を見聞きする。 恋故に命を懸けし時代あり枷なき今の恋は薄味(初出 桃李歌壇「和歌連作の部屋」) 2002年05月13日 13時21分38秒
|
![]() |
![]() |