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夕べは愉しい時間でした。 井上ひさし新作「太鼓たたいて笛ふいて」は、笑いと涙と、終わってからずしんと、重いものが残る、すばらしい舞台でした。 大竹しのぶはじめ、6人の役者も、初日の堅さと、未完成な演技が一部あったものの、大変な熱演でしたね。 ひさし作品は、初日の舞台が終わって、ホールで乾杯をするというので、お付き合いさせていただき、役者の一人からサインをもらったり、何人かの人のメッセージを伺ったり、舞台の興奮さめやらぬまま、暑さも忘れていました。 帰り道、舞台関係者が立ち寄るという飲み屋さんで、お話しすることも出来て、嬉しく思いました。 その際、「今日の芝居で、何を感じましたか」ときかれ、うまく応えられなかったことを、恥じております。 ひさし氏が芝居を通じて、訴えようとしているもの、私たちが、生まれる前から続いていて、今に繋がり、そして未来へ引き継いでいくメッセージ、どうしても伝えて行かねばならないことを、渾身の力を振り絞って、書いているのだと、仰いましたね。 林芙美子という、一つの時代に生きた女流作家の人生。 戦争を挟んだ時代の波と、時の権力に翻弄されながら、ある時、今まで信じていたものが、嘘であり、時代の作った物語の正体に気づく。 自分が、物語を作る側にまわっていたことも・・。 それからの彼女は、身を削るようにして書き続けますが、47歳という若さでの突然の死。 ほとんど芙美子の作品を読んでいない私には、理解の浅いところもありましたが、それを抜きにしても、時代の中に生きる個人の姿のありようは、充分感じるものがありました。 また、私のホームページを、見て下さっていて、有り難うございます。 日記について、「周辺のことより、もっと広く目を向けたらいいのに・・」といった意味のことも、仰いました。 私のつぶやきのような日記、ホームページに載せるからには、「財布代わりですから」という私の言葉も、いいわけに聞こえたかもしれません。 確かに、日記は、誰に向かってでもなく、自分自身の心の中を確かめるため、そして、そのことによって、自分を励まし、明日への生き方に繋げたいために書いているのですが、社会性がないという批判、その通りだと思います。 せっかく他者に向かって発信するメッセージ、身の回りの小さなことにとどまらず、社会に繋がることとして書けばいいのに、と、仰りたかったのでしょう。 ご忠告として、有り難く受け止めました。 こういうことは、あまり言ってくれる人がありませんので、貴重な言葉だと、思いました。 でも、たぶん、私の日記は、これからも、同じ書き方と内容で続いていくだろうと思います。 私は、この地球の、日本という国の、小さな場所で生きており、日々の暮らしが、平穏に過ぎていき、私に繋がる家族を含めた人たちが、同じく無事であることを願い、その日その日に顔を合わせる人たちと、幸せな出会いがあることを祈る、それだけの人間です。 遠く離れた国の人たちの不幸を耳にしながら、私には、どうする力もありません。 でも、たとえば、電車の中で、具合が悪くなって、苦しそうにしている人がいたら、一緒に、プラットホームに降りてあげることは出来るかもしれません。 顔を知らない人であっても、同じ電車の近くにいたというそのことで、私に縁の出来た人だからです。 そして、名前も告げず、別れていくでしょう。 ご近所で、市民運動に熱心な人が、自分の家の周りはゴミが散らかっていても平気、「立派な」ことをしてるのだからと、地域のことは、よその奥さんたちに任せて、意に介さずと、言う人がいます。 それも、一つの生き方、そして、どんなやり方であれ、そこに価値の上下はないというのが、ささやかな私の考えと申しましょうか。 夕べは、直接お話しできて、大変愉しうございました。 また、どこかの舞台のロビーでお会いできますことを、願っております。 2002年07月26日 09時21分46秒
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