沢の螢

akiko【MAIL

My追加

Mさんへ
2002年07月26日(金)

夕べは愉しい時間でした。
井上ひさし新作「太鼓たたいて笛ふいて」は、笑いと涙と、終わってからずしんと、重いものが残る、すばらしい舞台でした。
大竹しのぶはじめ、6人の役者も、初日の堅さと、未完成な演技が一部あったものの、大変な熱演でしたね。
ひさし作品は、初日の舞台が終わって、ホールで乾杯をするというので、お付き合いさせていただき、役者の一人からサインをもらったり、何人かの人のメッセージを伺ったり、舞台の興奮さめやらぬまま、暑さも忘れていました。
帰り道、舞台関係者が立ち寄るという飲み屋さんで、お話しすることも出来て、嬉しく思いました。
その際、「今日の芝居で、何を感じましたか」ときかれ、うまく応えられなかったことを、恥じております。
ひさし氏が芝居を通じて、訴えようとしているもの、私たちが、生まれる前から続いていて、今に繋がり、そして未来へ引き継いでいくメッセージ、どうしても伝えて行かねばならないことを、渾身の力を振り絞って、書いているのだと、仰いましたね。
林芙美子という、一つの時代に生きた女流作家の人生。
戦争を挟んだ時代の波と、時の権力に翻弄されながら、ある時、今まで信じていたものが、嘘であり、時代の作った物語の正体に気づく。
自分が、物語を作る側にまわっていたことも・・。
それからの彼女は、身を削るようにして書き続けますが、47歳という若さでの突然の死。
ほとんど芙美子の作品を読んでいない私には、理解の浅いところもありましたが、それを抜きにしても、時代の中に生きる個人の姿のありようは、充分感じるものがありました。
また、私のホームページを、見て下さっていて、有り難うございます。
日記について、「周辺のことより、もっと広く目を向けたらいいのに・・」といった意味のことも、仰いました。
私のつぶやきのような日記、ホームページに載せるからには、「財布代わりですから」という私の言葉も、いいわけに聞こえたかもしれません。
確かに、日記は、誰に向かってでもなく、自分自身の心の中を確かめるため、そして、そのことによって、自分を励まし、明日への生き方に繋げたいために書いているのですが、社会性がないという批判、その通りだと思います。
せっかく他者に向かって発信するメッセージ、身の回りの小さなことにとどまらず、社会に繋がることとして書けばいいのに、と、仰りたかったのでしょう。
ご忠告として、有り難く受け止めました。
こういうことは、あまり言ってくれる人がありませんので、貴重な言葉だと、思いました。
でも、たぶん、私の日記は、これからも、同じ書き方と内容で続いていくだろうと思います。
私は、この地球の、日本という国の、小さな場所で生きており、日々の暮らしが、平穏に過ぎていき、私に繋がる家族を含めた人たちが、同じく無事であることを願い、その日その日に顔を合わせる人たちと、幸せな出会いがあることを祈る、それだけの人間です。
遠く離れた国の人たちの不幸を耳にしながら、私には、どうする力もありません。
でも、たとえば、電車の中で、具合が悪くなって、苦しそうにしている人がいたら、一緒に、プラットホームに降りてあげることは出来るかもしれません。
顔を知らない人であっても、同じ電車の近くにいたというそのことで、私に縁の出来た人だからです。
そして、名前も告げず、別れていくでしょう。
ご近所で、市民運動に熱心な人が、自分の家の周りはゴミが散らかっていても平気、「立派な」ことをしてるのだからと、地域のことは、よその奥さんたちに任せて、意に介さずと、言う人がいます。
それも、一つの生き方、そして、どんなやり方であれ、そこに価値の上下はないというのが、ささやかな私の考えと申しましょうか。
夕べは、直接お話しできて、大変愉しうございました。
また、どこかの舞台のロビーでお会いできますことを、願っております。

2002年07月26日 09時21分46秒



BACK   NEXT
目次ページ