沢の螢

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プリマドンナ
2002年09月24日(火)

午後から雨に見舞われた連休中の22日、神奈川県民ホールに行った。
連れ合いも一緒である。
学生時代の共通の友人の、歌の発表会をきくためだった。
発表会と言っても、ある声楽家の教室に通う人たち、総勢60人近くが、一曲ずつ歌うものである。
20年前から続いている教室で、発表会は15回目ということだった。
行ったときは、午後3時過ぎ。午前中からの会が、後半に入り、上級者たちのオペラアリアの部に入ったところだった。
観客も、このあたりから俄然増えてきて、立ち見があるほど。
出演者の家族や知己の他、歌の好きな人たちの間で、知られるようになって、全くの縁故のないファンも多いようだ。
オペラアリアは、音大出身者や、天性の声と音楽的才能に恵まれた人たちがほとんどで、なかなか聴き応えがあった。
私は友人のために行くが、他にも、毎年愉しみにきいている何人かの出演者がいる。
友人はプッチーニのオペラ「つばめ」から「ドレッタの夢」を歌った。
この歌は、短いが、音域が広く、かなり高いピアニシモを要求されるので、難曲である。
ブレスも難しい。
ちょっと、はらはらするところもあったが、声がきれいにのびて、良く歌っていた。
夫と共に、大きな拍手を贈った。
彼女の後に続く出演者は、実力者揃い、それぞれ難しいアリアを、如何に精進したかがわかる練習の成果を示すごとく、すばらしい出来だった。
終わって、友人に声をかけ、私の先生でもあった声楽家にも、挨拶して、会場をあとにした。
外はかなりの雨であった。

ロンドンから帰国して次の年、兼ねてから歌を習いたいと思っていたので、吉祥寺にある歌の教室に入った。
高名な声楽家が、講師としてきていることは、前から知っていた。
でも、とても私のような素人が行くところではないと思っていた。
メトロポリタンオペラに、日本人として始めて出演したという、輝かしい経歴を持つ人である。
習いに来る人は、みな、音大卒業者で、難しい歌を扱うものだろうと思っていた。
そんなところへ、行ってみようと思ったのは、ロンドンにいるとき、成人学級で、歌を習って、人前で歌うことの、魅力を知ったからである。
上手下手は関係なし、好きな楽譜を持ち込んで、皆の前でレッスンを受ける。
何度か経験しているうちに、そんなことが平気になってしまい、日本に帰ったら、ちゃんと歌を習いたいと思っていたのだった。
コーラスは、学生時代からいやというほど経験したが、一人で歌うことの、おもしろさに、遅まきながら目覚めたのである。
そして、プリマドンナに巡り会ったというわけだった。
入ってみると、その教室は、私のようなふつうのおばさんたちがほとんど、専門家らしい人は、いなかった。
先生は、当時50代後半、華やかなロングドレスを着て、婉然とほほえんでいた。
新入生は、挨拶代わりに何か歌うのが、決まりになっているというので、私は「カロ.ミオ.ベン」を歌った。
高校生の時、音楽の時間に習った歌だった。
先生は「ま、挨拶だからね」とだけ言った。
私は、その日、家から近いので、普段着のようなパンツ姿だったが、あとでわかったのは、先生は、そういう服装が嫌いなのだと言うことだった。
それからは、教室に行くときは、出来るだけおしゃれをし、主婦的感覚を剥ぎ落として出ることにした。
厳しく、自分の感情に正直で、人の好き嫌いの激しいプリマドンナは、時に、生徒たちの反発を買ったりしたが、歌に関しては、いい加減な教え方はしなかった。
相手が素人だからと言って、歌をおろそかに扱うことは、自分の芸術的良心が許さなかったのだろう。
その姿勢に惹かれて、吉祥寺から新宿に場所が変わっても通い続け、3回の発表会も経験して、7年経った。
それをやめたのは、もともと天性の声に恵まれず、音楽的才能のない私には、これ以上、無理だと思ったことと、両親が同居するようになってから、時間的、体力的限界を感じたからだった。
でも、歌が嫌いになったわけではない。
それからも先生のリサイタルには赴き、教室の発表会にも、観客として足を運んだ。
昨年、何年ぶりかで、先生が講師である「カンツオーネ」の教室に行った。
ここは、3ヶ月に数回という単発の講座で、土曜日と言うこともあり、若い人、男の人も来て、少しくだけたやり方をしているらしかったので、歌を忘れたカナリアには、ちょうどいいと思ったのである。
先生は、私を覚えてくれていて、「良く来たわね」と、声をかけてくれた。
プリマドンナは、昔より優しくなり、感情を露わにすることはないように見えた。
生徒には、なるべく公平にと、気を遣っているようでもあった。
外国の音大を出て、若いときは、ほとんどヨーロッパで仕事をしていたプリマドンナは、日本の芸大閥が幅をきかせる楽壇では、門を閉ざされていたという話も聞いたことがある。
専門家を育てる道もあまり無く、ふつうの人たちに歌を教えることに、活路を見いだしたのだった。
いくつかの教室を受け持っていたが、本当は、自分の手で、専門家を育て、世に送り出したかったであろう。
今の時代なら、外国育ちのプリマドンナが、閉め出されることはない。
プリマドンナの育った時代の音楽的環境が、その才能を十分に生かし切れなかったのは、その人自身にも、日本の楽壇にも、不幸なことだったと、あらためて思った。



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