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住んでいる市のホールで、年一回古き良き時代の日本映画をシリーズで取り上げる。 今年は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の作品である。 今日は「娘.妻.母」と、「妻として女として」の2本だった。 共に、昭和35年前後のもの。 このころの映画を見て、一番印象的なのは、セリフの言葉遣いだ。 最初の場面で、主な出演者が、ずらりと登場するが、そのとき交わされる会話で、人々の関係がわかる。 母と娘、夫と妻、きょうだい、そこに嫁が入り、嫁いだ娘が帰ってくる。 誰と誰が本当のきょうだいで、誰が義理の関係か、いちいち説明しなくても、言葉遣いで、すべてわかる。 女性の場合、それがことに顕著であって、ああ、この人は、お嫁さんなんだな、こちらは、実家に帰ってきた娘だな、話している相手は、夫の母なんだな、こちらの男は、実家に帰ってきた娘の亭主だな、などと言うことが、2言、3言の言葉のやりとりで、判断が付くのである。 あらためて日本語というのは、人間の関係を、主語無しで表現できる言葉なんだな、ということを認識した。 でも、今の時代はどうだろう。 成人した息子や娘が、親に敬語を使うだろうか。 妻が夫に、丁寧語を使って話すだろうか。 映像無しのセリフだけだったら、登場人物の家族関係を判断するのは、かなり難しいにちがいない。 それにしても、この時代の女優は、なんと美しいのだろう。 原節子、淡島千景、高峰秀子、淡路恵子、草笛光子、それにファニーフェイスの団令子や、芸達者な中北千枝子が顔を出していた。 面白いのは、母親の還暦祝いだと言って、一族が集まる場面で、母親役の三益愛子が、どう見ても70代半ば過ぎと思われるような、老けた造りで出ていることだった。 杉村春子も、実際の年よりずっと年上の役どころで、出ていた。 そして、髪はひっつめ、化粧気もなく、地味な着物を着て、立ち居振る舞いといい、歩き方といい、全く老婆そのもの。 あの時代は、60歳というと、そんな感じだったのだろうか。 「いくら何でも、ちょっとひどすぎるんじゃない」と、帰ってから夫に言うと、「それがノーマルだよ。今の女は、いつまでもナマグサすぎるんだよ」と、言われてしまった。 森雅之、宝田明、仲代達矢、上原謙、小泉博、彼らも若くてすばらしい。 飯田蝶子が出ていて、懐かしかった。 そして、出演者の半分くらいは、すでにこの世にいない。 ゆっくりと丁寧な話の展開、心にしみるセリフ運び、映画が娯楽の王者だった頃のものだから、時間と人物を贅沢に使っている。 今は使われていない、お妾さんとか、女中などということばも、自然に出てきて、違和感なかった。 「浮雲」「流れる」「あらくれ」「浮雲」などの作品が、この後続く。楽しみである。
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