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学校を出て5年ほど、会社勤めをした。 結婚し、子供が生まれることになって、退職した。 当時の社会状況では、それがごく普通だったし、結婚すると「いつまで勤めるのか」と、周りが訊いてきて、同性である女性たちまで、急に既婚者を「オバサン」などと呼んだりする雰囲気があった。 今なら、セクハラになるところである。 よほどの意志と、能力がなければ、仕事を続けてはいけない時代だった。 そんな時代に、社会に出て、結婚、出産を経て、定年まで働き続けた女性たちは、やはりエライと思う。 私の最近親しくなった友達で、そういう人がいる。 ずっと教職にあり、管理職の最高まで上り詰め、勤めを全うした。 退職後は教育委員会に勤め、そこをやめても、仕事はつぎつぎと入ってくるらしく、今は、簡易裁判所と女子大の講師、後輩の指導や教科書の策定などに関わっている。 その合間を縫って、旅行や芝居、人付き合いと、忙しい。まさにスーパーウーマンである。 知り合ったのは、連句を通してである。 私が連句の世界に入ったのは8年前、それから4年遅れて彼女が入ってきた。 連句関係の催しにも積極的に参加し、物怖じしないところから、この人は、ただ者じゃないと感じた。 そのうち、彼女が教育界でのキャリアウーマンであることがすぐ知れたが、彼女は、そうしたことをあからさまに出すことはせず、連句界では、あくまで新人として、先輩たちを立てるという態度を通した。 私に対しても、彼女は、自分が後輩であるという姿勢を保って接している。 一緒に芝居を見に行ったりして、次第に親しくなったが、それにつれ、やはりこの人は、昔の職業意識から、抜けてないんだなあと感じることも出てきた。 昨年のこと、私が属している連句のグループに誘ったことがあった。 それは結社と関係なく、有志で和やかに集まっているグループである。 そういうグループは、結社の中に、いくつもあって、私は、そのグループが、自分の体質に合っていたので、昨年初めから参加していたのだった。 彼女が入りたいというので、私は、グループのリーダー格の人に相談した。 当然、受け入れられると思ったので、彼女ともすでに、一緒に行く打ち合わせまで、すませていた。 ところが、結果はノーであった。 リーダー格の人は、彼女が、グループの活動拠点から遠いところに住んでいるからと、理由を挙げたが、私は、本当のわけを察した。 彼女の輝かしい経歴が、その人の価値観と合わなかったのである。 彼は、彼女とは対照的に、社会の主流とは離れたところで、苦労し、権威によらない自らの能力だけで、生きてきた人であった。 豊富な知識も、詩的才能も、ほとんど独学で身につけたようであり、思想的にも、左寄りで、若い頃は、労働運動の現場にいたという話も聞いたことがある。 今は、そうした一線からは離れているが、権力や政治の中枢に対する激しい抵抗心は、時にチラと顔を出すときがある。 そんな人が、彼女のような、日の当たるところばかり歩いている人を、すんなり受け入れる筈がないのは、考えてみれば当然であった。 私は、趣味の世界のことだから、そういうことは、関係ないと思っていたのだが、彼の方は、反発が先に来たらしい。 私は、彼女が傷付かぬよう、「今は会員を増やさないようにしているらしい」ということにして、納得してもらおうとした。 ところが、それまで、人に拒否された経験のほとんどなかった彼女にとって、大変ショックだったらしい。 怒った彼女は、グループのリーダーとグループを非難するようなことを言った。 私は、不愉快になり、しばらく電話もメールも断って、彼女から距離を置くことにした。 彼女が、文字通りのタダの人だったら、これほど怒らなかったはずである。 自分は、どこにでも受け入れられるはずだという、思い込みがあったのである。 日頃、私に、必要以上に低姿勢で接してくれているのも、そうした思い込みの逆の感覚だったのだと、はじめて分かった。 ひと月ぐらいしてから、彼女の方から、電話があった。 自分が、長いこと培ってきたものは、あくまでその中でのことであり、どこにでも通用するものでないことを悟ったと、素直に認めていた。 私も、そのことは、それ以上追求せず、忘れることにした。 その後、何事もなく、1年過ぎた。 しかし、今日、また似たようなことがあった。 私の連句ボードで、今、付け合いをはじめたところである。 8,9人で、付け合いをしているが、彼女のところで、ちょっと停滞することがあり、彼女の忙しさを知っている私が、適当に処理して、先に進めてしまった。 長い付け合いであり、あくまでも遊びであり、あまり停滞しても次ぎが続かなくなり、他の人が困るので、進行係として、うまくまとめたつもりだったが、彼女は、自分が無視されたと思ったらしい。 怒って電話をかけてきた。 それを訊きながら、やはり昨年のことを思い出した。 連句というのは、ひとりひとりがあまり自己主張すると、うまくいかない世界である。 私も、自己主張の強い方で、共同作品としての連句とは、性格的に合わないと感じることもあって、時々、ジレンマに陥るが、この頃自分でボードを主催するようになって、人のことがよく分かってきた。 複数の人たちが、愉しめるように気を遣い、バランスを取り、ネット上では、ちょっとした言葉の使い方でトラブルを生むこともあるので、表現には、細心の注意を払っている。 彼女のことも、半ば、気を遣いすぎたための、行き違いであった。 彼女が付け句を出したが、前句に問題があって、作者の了解のもとに直した。 当然、付け句が合わなくなる。 そこで、いったん彼女の句をご破算にしてやり直してもよかったのだが、せっかくだから、彼女にもう一度出してもらおうとした。 しかし、彼女は、仕事で出かけており、夕方になっても応答がないので、私が、彼女の付け句のうち、これならと思うものを選んで、代わりに処理した。 それが、気に障ったのである。「付けてほしいというから付けを出したのに、勝手に変えるとは何事か」というわけである。 本当は、ネット上のことを、実生活でやりとりする必要はないのである。 このようにさせていただきましたが、ご了解下さいと、ボードで断っている。 ネット上でのメッセージで、充分なのである。 しかし、知らない人ではないので、気を遣って、留守番電話にその旨入れておいたのが、かえっていけなかったのであった。 ボードも見ないうちに、怒って、電話をよこしたのであった。 忍耐強く応対しながら、だんだん腹が立ってきた。 いったい何様だと思っているのか。 もちろん、留守中に、勝手に処理されてしまった怒りは分かる。 しかし、そこだけがすべてではないのである。 自分が時間のあるときに、ゆっくり付ければいい。 むしろ、「うまくやっていただいて有り難う」と言ってくれてもいいことである。 それが、プライドを傷つけられたと言わんばかりの怒り方である。 「私は忙しいんだから、すぐには答えられない」というなら、留守中のことは、進行係にお任せしますでいいではないか。 どこかに、自分はエライという感覚が働いている。 私は、気を遣いすぎた自分を反省し、無理して参加しなくても結構です、と言う態度で行くことにした。 こちらも、営利事業ではない。 全くの趣味でやっている。 連句の愉しさを、何とか、ネットで出来ないものかと、試行錯誤しながら呼びかけて、参加してくれる人には感謝しながらやっている。 生活時間も、忙しさもさまざま、その中でみなが愉しめるようにと、私なりに気を遣っている。 競争ではないから、急ぐ必要はないが、ボードが半日も止まっていると、流れが途絶えるので、そのかねあいが難しい。 意見交換は自由にと言うことになっているので、さかのぼって修正することもある。そんな中では、融通無碍でないと、うまくいかない。 ちょっと気にくわないことがあっても、まあまあと言うくらいの、おおらかさを持ってほしい。 そんなことを感じながら、私も、他人のボードだったら、似たような反応をするのかなと、ふと思った。
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