独り言
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2006年04月24日(月) |
テリーデイズというBandについて・その5 |
1990年2月
スージー・キューが亜龍にもたらした物はベース&ボーカルとしてのはじまりだけでは無かった
先にも記述した通りスージー・キューは幼少期から蛇孔の人間だからこそ持ち得る裏ルートによって当時の中国検閲レベルでは到底受け止め切れない斬新で過激な音源を山の様に手に入れておりその全ては亜龍の興味を引き付けるに充分な魅力を備えたものばかりだった
『受動的な学習』を強く憎んでいた亜龍にとってそれ等の音源は最高の教科書となり亜龍はここから驚く程急速に学習し成長していく
スージー・キューはこう語る 「私と出会う前の亜龍のお気に入りの曲っていったら誰も知らない様なクソ山奥の民謡とか私等の親世代が聴いてた様な歌謡曲ばっか…あと彼が母親から教えてもらったっていう日本の曲も多かったわね
…でも私が路上で初めて聴いた彼の歌は間違いなくロックだったのよ
形は悪かったけどその至る所にロック特有の輝きを持ってた
だから私はロックな音源を毎日何枚も彼に貸してあげたわ
もちろんロックだけじゃなくポップ、フォーク、ブルース、ジャズ何でもありだったけど」
亜龍は特にツェッペリン以降のハード・ロックやジャーマン・メタル…そして意外にもアメリカン・カントリーやスウェディッシュ・ポップ等を好んで聴く様になりそれ等はその後の彼のソングライティングに大きな影響を与える事となる
スージー・キューはこんなエピソードも話してくれた 「亜龍にツェッペリンの二枚目のアルバムを貸してあげた時の事なんだけど
相当気に入っちゃったみたいでさぁ…次の日私がスタジオに行ったら彼があのジャケ写で男達が被ってるのと同じ様な軍帽を被って待ってて
そしてニヤニヤしながらあのアルバムの曲を全部ベースを弾きながら歌ってみせたの
40分近くあるあのアルバム全部よ…まったく
…まぁでもその頃には彼のそんなメチャクチャな所にも慣れちゃってたから…黙って聴いてたわ
…でもつい最近ベースを始めたとは思えない位に上達してた…歌は相変わらずイマイチだったけど」
ベースを始めてから亜龍はあまり家に帰らなくなり二〜三日スタジオに籠もりっきりという事もざらにあったという
「一度だけ彼のお母さんが心配してスタジオに探しに来た事があったんだけど…それが年の割に可愛らしい人でね
『ウチの店で働かない?』 って冗談で言ったら亜龍に 『俺の近しい人間にアバズレは二人もいらないよ』 って言われたわ…
…殺してやろうかと思ったわね
いやマジで
でもお母さんに免じて許してやったの
本当に素敵な女性だった 心から亜龍を愛してるっていうのが表情や仕草の一つ一つに溢れてたわ
そんな人の前で…殺せないじゃないやっぱり
…ねぇ私の話ちゃんと聞いてんの?」
この様に亜龍が『バカな音楽好き』から『音楽バカ』へと成長すると次第に彼の作る曲にもポピュラリティーが生まれ出し彼の音楽に対するスタンスも『学習』の段階から『表現』の段階へと以降し始める
それに伴って亜龍とスージー・キューは現代のバンドでさえも未だに抱える最大の問題と初めて真正面から向き合わなければならなくなる(実際にはその負担の全てがスージー・キューにのしかかる事になるのだが)
ドラマーの不在
バンドを結成するとなった当初からこの問題は揺るぎ無くそこにあったのだが亜龍はもちろんの事スージー・キューまでもが見て見ぬ振りをしていたのだ
スージー・キュー曰く 「あの時代にドラマーを…特にロックなドラマーを捜すなんて事は
『地獄で天使を捕まえる』
よりも難しい事」だったという
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