本日、電話で呼ばれ、ある家に迎えに行く。 春のぽかぽか陽気のせいだろう。ガス馬車を待つおばあちゃんは、恐らく彼女の家であろううちの玄関の前にある石のところで、腰掛けて待っていた。 おいらは、到着すると、扉を開け、彼女を受け入れる準備に入った。 と、物陰から若い女性が出てくる。 ちょっと茶髪で、でも、年は25,6だろうか。パフィの亜美ちゃん似の子である(顔音痴のおいらがそう思ったのだから、よほど似ているのだろうね)。 少し様子をみていると、彼女もどうやらおばあちゃんの付き添いで乗るつもりらしい。 結局、彼女は、おばあちゃんを病院へ連れて行き、帰りもおいらが迎えに行った。 当初は、ヘルパーさんか何かだと思っていたのだけど、どうやら、本当のお孫さんみたいだった。 しかし、あれくらいの年で、おばあちゃんの面倒を見れるのはたいしたものだ。 そういう教育をされてきたというのであれば、もちろんそういうことをして当たり前なのだが、それでも、凄いよね。 ばあちゃんの病院の付き添いで、三時間も四時間もくっついているってのは、凄いこと。普通、時間があったら、友達と遊びにいっちゃったりするんじゃない?
あんまり年齢で人間の完成度を見るのは好きじゃないけど、好きじゃないといいつつ、おいらもやはり、人間の完成度を年齢でみてしまう。 普通に生きていれば、こういう経験はしてるだろうから、これくらいは分かって当然、だとかね。 でも、見方が間違っているのか、水準が高すぎるのかわからないけど、意外にちゃんとしていない人も多い。 実際、三十過ぎになっても、親の名義で借金を自転車操業的に借りるあほな人間を何人も見てきている。 まあ、年代関係なしに、親の教育で・・・という話はあるが、それでも、三十過ぎになったら、親が自分に施してきた教育について、ある程度自分で客観的に見て、正しいか間違っているかくらいの判断はできるだろうと思いたい。 極端な例だけど、例えば、幼少期に親に賽銭泥棒をしてくるように言われて(おお、まさにサッチー一家(爆))意味もわからずさせられていたけども、それが三十過ぎになって、
「親がやっていたから、そのことが悪いことだと知らなかった」
という風に主張する人間がいたとしたら、それはおいらからいわせれば、未だに親離れしていない、という気がする。 親にも問題があるけどね。勿論。
この彼女が、親の教育を受けてきたからこそそうだったのか、それとも、自分で判断してそうだったのか、はおいらには分からない。 でも、おいらは後者であって欲しい、とちょっと思うのだった。 大きなお世話だけど。
おいらに自分の子供ができたら、自分で判断できるように育てたい。 ダメならダメで、どうしてダメなのか。 常識だから、ではなくて、どうしてそのことがその時代で常識になったのか、という歴史的背景にまで迫って教えたい。 多分、こういう育て方をすると、勉強はできない子供になるだろうな。 必要な事項をテスト時までに詰め込まないといけない場合、丸暗記をしたほうが効率が良いから。恐らく、背景まで理解していたら、時間が足りないだろうから。 でも、おいらは、勉強はできなくてもいいから、筋がわかっている人間を育てたい。 そうすることで、物事の本質が理解できるようになるような気がするから。 おいら、まちがってるかなー(^^;
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