夢見る汗牛充棟
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2002年12月09日(月) 道端の絵描き

カエは健康のためのウォーキングというものを実践している。
朝と夕方の二回だったが、一週間で朝一回に変更になった。
それでも、もう十週間くらいは続いている。
カエにしては素晴らしい好記録だ。

いつもは友人と一緒に歩いているのだが、今日のカエは一人だった。
昨夜その友人の木崎イツカからは、明日はパスね、のメールが届いていた。
残業と飲みで帰宅が遅くなったらしい。

女一人で早朝散歩など少し怖いし休もうかとも思ったが、今日休んだら
もう続かないに違いない。
それで、カエはいつも通り起き出して、お決まりのコースを歩いていった。

いつもならその時間はおしゃべりに費やす。
付き合っている恋人のこと、友人のこと、職場の嫌なおばさんのこと。
さわやかな空気を吸いながら、何故か話題はさわやかでないことばかりだ。

朝の空気の中に体内に溜め込んだ毒を吐き出しすっきりしているという
ことだろう。
空気は汚れるかもしれないが、健康にはかえられない。

今日は話し相手がいないので歩きながら周囲の景色を眺める。
斜光に彩られた景色は、あらためて見れば、見慣れたものでも妙に
新鮮に感じられる。
こういうのも、悪くないじゃない。カエは一人、満足していた。

一人の老人がいつも通り道の端に置かれたベンチに腰下ろしていた。
スケッチブックに熱心に何かを描きとっているのもいつもと同じだ。

彼は、いつも同じ場所でそうやって絵を描いている。

カエたちがウォーキングを始めるずっと前から、そうなのだろう。

「老後の楽しみというやつかもしれないよ。ああいうのって、なんか
いいね」

イツカはそんな風に老人を評し、カエもそうだなと思ったものだった。

老人は描くことに集中しきっていて、カエたちが傍を通っても、まったく
感知しない。

早朝は何故か【行き会う他人同士が爽やかにあいさつを交し合う】という
奇妙な連帯感が支配する時間だが、老人にはまったくその気はないよう
だった。

一体、何の絵を描いているんだろう。
通るたびに知りたくて仕方がなかったのだ。

今朝は、小さな疑問の答えを知るには、格好の機会のような気がした。
そこで、カエは老人の側に歩み寄るとスケッチブックをそっと覗いてみた。
老人は、公園の風景や移ろいをその紙面に写しとっているのだと思っていた。
通りすがりにふっと覗き込んで、思わずカエは立ち止まる。
考えていたような絵はなかった。

木の幹と女の姿が描かれていた。正確には、描きかけだ。

見渡せども、ここにはそんなものは見えない。
もちろん記憶の限り、女の人だっていたことはない。

この老人は一体何をみてこの絵を描いているんだろう、不思議に思った時。

「好奇心は満たされたかな?」老人が口を開いた。

カエは顔を赤らめた。老人は、穏やかな灰色の目でカエを見ていた。

「ごめんなさい。」

言い訳しても仕方ないのに、焦って言葉を続けてしまう。

「あ、あの。毎日、どういう絵を描いていらっしゃるんだろう、と思って
いたから、見てしまいました。失礼…」

老人は手を振ってカエの言葉を遮った。

「わしは構わんよ。」

言いながら老人はスケッチブックをカエに向かって差し出す。
見てもいい、という事だろう。躊躇したが、カエはそれを受け取った。
最初から見る。

丁寧に描き込まれた樹の幹。切り倒された、寂しげな幹。
何の樹なのか、葉が一枚もなく、残っているのは根元だけなのでカエには
まるでわからない。
それにもたれる女は和服を着ているらしい。
ほどけた長い髪が地にうねっている。白い顔に髪の毛がかかる。顔。貌。
女には、顔が、ない。

次の一枚。樹の幹。女の顔なき顔。次の一枚…。

全てが切り倒された樹の幹。

全てが、同じ女の姿を描いていた。

和服を着て、長い黒髪をなびかせ、ふらりと立ち尽くしている。

或いは、切られた樹の幹にしなだれかかっている。

そして、全て、顔がない。

女と樹の幹は同じ関心をもって、描かれている。

これだけ密に書き込まれているのに、顔だけが空白なのが、
異様な感じだった。

最後まで一渡り眺めて、カエはスケッチブックを閉じた。
裏表紙にはペンで九拾八と書いてあった。

「九十八冊目、なんですか?この数字。」

「そう。」

老人は胸ポケットから煙草を取り出すと火をつけた。
半眼になり旨そうに深々と吸う。
吐き出す。様になるなぁ、とカエは少しその姿に見とれる。

「ずっとこの絵を描いてるよ。」
老人はカエが聞きたかった事を言った。

「ずっと?」
「うん。仕事をやめてからずっと描いている。」
「でも…」
「ああ。顔ね…。」

老人は透明な表情で、指に挟んだ煙草から昇ってゆく煙を見ていた。

「男は昔、画家の卵だった。まだうんと若い時分だ。まだどこもかしこ
も貧しくて、そんな時代じゃあなかったから、絵を描いてるなんて言ったら
軟弱者と罵られたもんだった。両親が家だけは残してくれていたが、とても
食ってはいけない。その女は、なんでもして、生活力のない男をを食わせて
くれた。…昔の話だ。」

カエが凝視していると、老人は口元だけ歪めて笑ったようだった。

「そうそう。顔を描かない、という事についてだった。あんたが不思議に
思っているのは。…」

「女は、苦労が祟って身体を壊してじき死んだ。男と幼い子供が残された。
男は食わせてくれる女がいなくなると、絵筆を捨ててしまった。…家の庭
には、女が好きだった樹があったんだが、その樹もその時切り倒した。
いろいろあったが、やがて定職につき男は生活に追われていった。長い年月。
どうにか勤めも終わった。さて、絵でも描こうかと思った。男は、再び絵を
描こうと思った。初めの儀式として、男は女を描こうと決めた。思い出の女を。
最初と決めた一枚がとんだことで…。描きたい女の眼差しが描けん。
あれは、どういう表情をしていたのだったか。庭に生えていた筈の樹も
何か、忘れてしまったらしい。描くうちにどうにかなるかと思ったが。」

老人は、言葉を切った。話は終わりだった。

短くなった煙草を揉み消して、灰皿に捨てると、彼は再びスケッチブックを
開き、新しい白紙に鉛筆を走らせはじめた。


カエは集中を途切らせないようにそっとその場を離れた。
少し泣きたいような気がした。

志半ばで絵筆を折ったこと。樹を切り倒したこと。

老人が絵を完成させることは、決してないようにカエは思う。

顔のない女。

彼女は限りなく優しく、限りなく哀しい眼差しで、老人を見つめ続けて
いるのだろう。

春の中でも夏の日にも秋にも、冬にも。景色がいかに変わろうとも、
こころの景色は変わらないまま。
老人は視線を感じながら、未完成の、顔のない女を描き続ける。

なんだか、胸が、ちくりとした。


恵 |MAIL