夢見る汗牛充棟
DiaryINDEXpastwill


2007年03月17日(土) 悪魔に魅入られた本の城 オリヴィエーロ・ディリベルト

晶文社 シリーズ 愛書・探書・蔵書

図書館で借り。読了。

ある種の人物には怖い本。

個人の蔵書が死後どのように散逸していったかについて
調べたレポートです。

古本屋で本を買うと、背表紙に蔵書印がついていたりします。
図書館だったり、個人名だったり、会社の資料室だったり。
そういうものけっこうあります。
以前買った青蛙房 旧事諮問録には
『大映企画製作本部蔵書』って印がついてました。

ともかく
個人の蔵書が死後図書館に寄付されやがて図書館から放出され
戦争などをくぐる中であるものは失われ、幸運な数冊はある日
突然どこかの古書店で埃をかぶり、その価値を知るものに見出
されたりする。

それを探求し調べ上げた本。原動力はやっぱ「特定の」本への
すさまじい愛と執着。加えてその価値をわからない者への怒り
なんだろーなと思いました。執念と怨念を感じます。

でも散逸する本を惜しみ怒りつつ古書店で目を皿のようにして
愛書を見つけた時、ニヤリと笑うのもこーゆー人たちなんじゃ
ないのかなって思うんだけど。違ってる?

ともあれ、ほんと本の多いみなさま、火事にだけはくれぐれも
お互い気をつけましょう。


同時に収録されていたされていたエッセイ
「蔵書という自己疎外」池田浩士

は、涙なしでは読めないものでした。身につまされる。
集めている本が学術書だろうと文学だろうとラノベだろうとね
感じる苦悩は大差ないんだろうな、と思います。

火事になったらどれ持って逃げようかよく考えます。
死んだらこの本どうなっちゃうのかとも考えます。
まとめて「資源ごみ」だけは許せん! とか思いますが。
許せんのは多分私の気持ちだけです。
愛好家に収拾されたものは本人の死亡と共に必ず散逸するんですね。
件のモムゼンの蔵書だろうが、マクベの壺だろうが逃れられない。
いくら「良いものだ」言うても死後じゃどうしょうもないことです。

同じ本3冊買う人の話が冒頭にありました。
1冊は本棚。1冊は読書用。1冊はフレーズを切り抜く用。
愛する本の生殺与奪を握っているという高らかな喜びが伝わるな
と思います。多分それが貴重な本であればあるほど所有を宣言し
それを我が物とする最高の行為は読むことではなく切り刻むこと
かなと思うです。人手に渡るくらいならここで消滅してしまえと。
さぞかし高揚し、さぞかし快感を得るんではないだろーか。

私も3冊もってる本はありますけど
1冊は普通に読む。1冊は会社で読む。1冊は付箋がべたべた
貼り付けてある資料用です。
本を切って損なうほどの変態でなくて良かったと思いましたが
しょせん目くそ鼻くその類かもしれない。

でも本は読めりゃいいので、初版とかそゆうのはどうでもいい。
ただ図書館で借りて読んだ本でも、気に入ると所有したくなるとか
所有欲はいかんともしがたい。でも置き場所ないんだよね。


〜冷静に理性的に考えるなら、地獄から脱出するための最大かつ最後の
チャンスは、ある本が本棚のどこにあるかを即座に思い浮かべることが
できなくなった時点である。(中略)
 その本がどこにあるかを、正確に思い浮かべることができなくなったのだ。
かれが年齢を重ねて耄碌したからではない。棚に並んだ本の上の隙間に
横にした本を突っ込み、それでも足りなくなって、今度は並べた本の
手前にさらに一列、つまり二重に本を並べないと収まりきらなくなり
こうして必然的に、本の顔をつねに見ているということがなくなっていく。
人間と人間の関係と同じで本ともまたつねに顔を見合い、目を見つめ
合っていないと、たちまち関係は疎遠になっていくのである〜


この彼に共感を覚えた人は読んで自己憐憫にひたれると思います。

彼は自分か? と思ったわしの文庫さんは一時期奥行き三重で
縦にも三段でした。こうなると一番奥の一番下の列に何があるのかは
もはや忘却の川に流され、うっかり同じ本を買うことが頻発するです。

まぁ、いかんともし難いことです。


恵 |MAIL