「隙 間」

2006年01月03日(火) 流星ワゴン

さて、正月三が日も終り、年越しとこの休みの間でひと息に小説を進めるぞ! と思いきや……。
持ち帰った仕事納めに収まりきらなかったお仕事すらまともに手をつけられず、地元の友人達との再会しか果たせなかった竹です。

本を読む時間もやっと東京へ帰る電車の中で確保し、読みきった……。
重松 清さんの、

「流星ワゴン」

この作品は、正直、ヤバイ、です……。
自分のことを、とにかく、棚に上げて話をするならば、是非、誰かに薦めたい本。

内容に触れると、とても自分の耳が痛い内容のお話で……。

事故死した親子が、家族や妻との絆の崩壊に疲れ果て、そこにいる自分の「生」の意味を諦めた「父」を、自分達のワゴンに乗せて彼の過去を巡る。それは本人が気が付かなかっただけで、実はとても重要な分岐点でもある。やがて同乗者に、自分と同じ年の自分の「父親」が加わり、二組の親子を乗せたワゴンは、やり直しの旅の終着へと向かってゆく。
「過去でのやり直しは、結局現実には無かった事になるんですよ」
「じゃあ、現実を変えたくてやり直しても、それは無駄な事ってことですか?」
「重要な分岐点だったことを知らずにいるのと、知っているのと……。何も出来なくても、その事を知ることが、重要なんです」

三組の親子が登場する。
事故死した親子と、主人公の「父」とその息子と、主人公の「父」とその「父親」。
必死に親子の関係を築こうと父親が努力していた親子と、円満な親子関係を築いてきたつまりだったが実際は失敗してしまっていた親子、そして、すっかり崩壊してしまっていた親子。
実際には何も変わってはいないはずの「やり直し」の意味を理解した上で「父」自身の導き出す答え……。

身内からの耳の痛いお話は、とりあえず耳を塞がせて貰って。
「父親」と「父」は、『朋輩』と言う関係で初めて、理解し合える。
父親はいつまでたってもやっぱり父親であって、決して同じ立場に肩を並べる事は出来ない。
だから、『未来である現実を知らない、同じ年同士の朋輩としての父親』という形が必要になる。

うだうだ言っても、伝えられないものが、この作品には、ある。

「知る」ことと「わかる」ことの違いは確かにある。が、せめて知ることはできる。あとは、「わかる」ために時間を積み重ねて行くだけ。
作者は、父親になった息子である今だからこそ、書けた作品。と言っている。

父親でも、息子でも、一読する価値は十分ある作品だった。

……少しだけだけど筆も進めたし、新年の休日として駆け込みで英気を養えたかな?


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