| 2008年04月22日(火) |
信じること、よしとすること |
不忍池をぐるりと歩きながら、つらつらと。
わたしはときに、妙な直感というか閃きというか、脈絡もなくそんなものやことを感じる……というか、のみこまれてしまう(?)ことがあります。
例えるなら、
蕎麦屋の前で犬を見かけて、気がつくと……
「ワンこ蕎麦っ!」
と口に出しているときのように、大脳ではなく脊髄で反応しているような(汗)
それが臨機応変にというわけでも、しょっちゅうというわけでもないので役にも立たないのですが……汗
恐らく、物語を書いているとき、考えては書いていないのも、そのあたりの影響かもしれません。
そんな直感が働いていたことを、思い出しました。
ああ、小説の受賞といった類いのものじゃありません(笑)
「知ることと理解することは別物」
という言葉をコメントで返したとき、ふと、です。
わたしは……罰当たりかもしれない表現をしますが、
「神も仏も認めるが、けっしてまるっきり頼らない」
というひねくれた人間です。 そのくせ、もし「じゃあ、いったい何を信じる?」と聞かれたら、老荘ではないけれど、「絶対なる一」と答えます。 それが何かはわかりません。 が、それはなにもしてはくれず、ただ己が「絶対なる一」の存在であり続けるだけ、のようなものと。
在るべくして在り、成るべくして成る。 それらは努力や行為の放棄を指すものではありません。
だからわたしは、自分にとって「書くべくして書き」続けているつもりです。
そりゃあ、根拠も裏付けも力も技も無いに等しいけれど(汗) だからちょいと、不忍池の弁天様に「芸ごとの才能ってわたしにあるのかしらん?」と尋ねてみたり、神田明神の将門様に「理不尽でもええっ。選考に紛れ込んだりしてへん?」と窺ってみたり、節操なかったりもしてますが(笑)
だからなのかもしれません。
「わしらを頼らんなら、手前で勝手に判断せいっ」
と……汗
いやいや、ご好意に預かれるのでしたら、お賽銭奮発しますから。 五円十円ではなく、思い切って百円、いや死んだ気で五百円、奉納させていただきますから……汗
とは言いつつ。
今回の作品で、ウィキ検索程度ですが「二代目桂枝雀」師匠を初めて知り、胸に突き刺さる言葉と出逢いました。
「私の中に私を見てる枝雀がいて、これが私になかなかオーケーを出してくれない。それがこのごろは、だいぶオーケーに近づいてきた。もうじき、です」
わたしはわたしに、まだまだオーケーは出せません。
「まあよし」
が、やっとです。 だけどそれは、明日のわたしは恐らく、そうとは言わないでしょう。
わたしが信じるのは、そんなわたしの中のわたしです。 神や仏が「全てよし」と言ったところで、わたしは「よし」ではありません。
まあ、わたしがわたしの中で諦め、投げちゃうこともありますが(汗)、そうありたいのです。
「もうちっと、すまあと、にまとめてくんねかったのかい?」
書き上げる度に、作品の中からそんな声が聞こえなくもありません……汗
「どうも、詰めが甘いんじゃないのかい?」
もごもごもご……ごもっともっ!
と(笑)
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