| 2008年05月14日(水) |
「おせん」千駄木谷中銀座夕焼けだんだん作り手の義務 |
ドラマ「おせん」ですが、今さらながら、舞台となっている一升庵は千駄木という設定で、ご近所の谷中銀座はしょっちゅう出てきています。
平日朝とかにロケやったりしてるんだろうなぁ。 見れないじゃん……。
などと残念に思いつつ、蒼井さんもここ谷中の同じ空気を吸っているのね……などと妄想にうつつを抜かしてみたりしています(汗)
以前「おせん」のオープニングに目を奪われてしまったという話をしたと思いますが、ドラマを観ていると、ふと興味深い発見をしてしまったような気がするのです。
これはもちろん、わたし個人の主観的なものなので、賛同していただけるかどうかは別にかまいません。
蒼井優という女優の魅力は、顔、とりわけその目、だと思っています。 そんな見方をしていたから気がついたのかもしれません。
ドラマの合間のCMで、イオンのCMに本人が出ています。
ドラマ中の蒼井さんと、まったく違います。 蒼井優である必要性がまったくないCMに見えるのです。
ただ「蒼井優」が出ているCMという看板だけのCMのようにすら思えてしまい、ただひたすら勿体無いと思ってしまうのです。
表情がわかるようなカットがほとんどないんですもの……。
逆に言ってしまうと、じゃあ蒼井優は目が顔が見えないと演技ができないのか、という意見もあるかもしれませんが、それは違います。
その人が持っている魅力を最大限に生かす。
それこそが、作り手の義務であり、責任でもあるように思うのです。
……。
同じ事を、わたしはわたし自信に言わなければならないかもしれません(汗)
不思議なものです。 一年以上前の作品に赤入れをしていると、ものの書き方自体が随分と変わっていることに気がつき、そして苦しくなります(汗)
ひと言で書いてある言葉を一行二行と書かずにいられなかったり、逆に一行二行をひと言で書ききってしまわずにいられなかったり。 その当時にしか使わない言葉を使っていたりするのなんか、とくに顕著だったりもするわけです。
言葉は生き物です。
生き物を文字という決して変わることのないもので繋ぎとめてゆくことには、ある意味限界があります。 限界を超えるために、必要最低限の言葉で余白を想像で補わせる表現をしなければならない……のかもしれません。
過去の文芸作品には、その当時ならではの言葉、物、事象を記録的に用いることによって評価されているものもあります……。
どちらも方法でいい悪いはありません。
さあ、わたしはどうしましょう……汗
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