「隙 間」

2008年06月02日(月) わたしの遠野物語拾遺〜付記〜

 昨夜、遠野駅前発のバスに乗った直後のことでした。
 背もたれを少し倒そうと、後ろの席の爺様にひと声かけるべく振り向いたところ、前に屈み込み、じっとうずくまっている様子。

「背もたれ、倒してもいいですか」
「……」

 ピクリとも動きません。
 気分でも悪いのか、胸患いか、はたまた耳が遠いだけなのかと、

「どうしました、だいじょうぶですか」

 つと爺様は顔を上げ、

「入り込んじゃった」
「え……」

 まるで純真無垢な子どものような目で、助けを求めるようにわたしを見つめ返してきました。

 入れ歯でも飲み込んでしまったのかとも想像しましたが、

「入り込んじゃって、とれないの」

 わたしの座席の下を指差してました。

 ああ、そっちか。

 よくよく見ると、爺様の足はスリッパが片方だけ。
 座席の下をのぞき込むと、なるほどそれらしき影が見えました。

 はい、どうぞ。

 ゴソゴソと手を突っ込んでスリッパの片割れを抜き取り、爺様の足元に履きやすいように置きました。
 爺様は足があまりよろしくないようで、スリッパの口に足を向けるのにも苦労している様子。

「ああ、ちょっと待って」

 爺様の向けられたつま先に、そとスリッパを履かせてあげました。

「どうも、ありがとう」
「いえいえ。じゃ、背もたれ、ちょっと倒しますね」
「え?」

 倒しちゃ、だめですか……?

「背もたれ」
「ああ、はいはい、どうも」

 伝わっているのか不安だったので、振り向きながらゆっくりと、ちょっとだけ倒しました。
 爺様はおそらく釜石からの乗客で、ひとりで宮沢賢治の世界を楽しんできたのでしょう。

 イーハトーヴにはまだまだ早い。
 こっちでもっと楽しみましょう。

「カハァ……クハァ……」

 爺様は寝息でそれに答えてくれたようでした。

 早朝の不忍池はどことなく澄み、また違った様子でした。

 そしてまた、日常がすぐに始まります……いえ、始まりました。

 まさに「胡蝶の夢」のようです。
 しっかり食べてきたというのに、体重わ変わらず、体脂肪率が十一パーセントだったものですから……。


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